他責思考は、魂の鏡を曇らせる──矢印を戻すという目覚め
誰かのせいにしたくなるとき。
わかっていても、つい矢印を外側に向けてしまうとき。
「こんなふうになったのは、あの人のせい」
「私は悪くない、あれがなければ…」
言葉にすればするほど、どこかで、
自分の声じゃない気がしてくることがあります。
魂は、確かにすべてを知っていて
ほんとうの自分は、
どこで本心ではなかったのかを悟っています。
思い浮かぶのは、一面が鏡張りの部屋のような場所。
目の前の鏡には、怒った顔、悲しい顔、尖った目が映っています。
「この部屋が悪いんだ」
「この鏡が、私をひどく映しているせい」
そんなふうに、鏡を責めたところで、
写っているのはいつだって、自分の今の姿です。鏡のせいにしているうちは、きっと何も変わらない。環境を変えても、
場所を変えても、
心の向きが変わらなければ、同じ顔がそこに映るだけなのです。
自分の光を整えたとき、
ほんの少し視線を和らげたとき、
鏡の中の世界は、音もなく変わりはじめるでしょう。
他責の思考は、
心を曇らせ、身体の芯を緊張させ、
さらにはエネルギーの流れを堰き止めて、
魂の声から遠ざけてしまいます。
たとえ誰かに傷つけられたとしても、
その後に何を選ぶかは、わたしの手にある。
選び方だけは、誰にも奪わせてはいけない。
それが“尊厳”というものです。
わたしの人生を、誰かに語らせない。
わたしの物語は、わたしが語る。
他人を責めているかぎり、
魂は戻ってはきません。
鏡の前で誰かの顔を探すよりも、まず、自分の目をしっかりと見てほしいのです。そこには、まだ光が残っているでしょう。
わたしを取り戻すために、
誰かを責める必要なんてない
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