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映画「PERFECT DAYS」鑑賞記 ──人間にとっての幸福とは何か── vol.1

映画「PERFECT DAYS」をもう観られただろうか。あなたがどういった感想を抱くのか、とても興味がある。もしまだ観られていなかったら──ネタバレもこれから書いていくので──鑑賞後にこの文章を読んでもらってもいいのかもしれない。 真っ白な状態で映画を観てみたいとお考えなら。役所広司演じる平山さんの最後のあのシーン。 車中、正面からの大写し。その変化する表情の演技をどう解釈するかによって、観た人の持っている価値観・人生観が浮き彫りになるようだ。 人によっては、「 平山は自らの生活をやはりみじめだと思っていた。だからラストで涙するのだ」と捉えるらしい。何人かからそういった感想を聞いた。私はそのようには受け取れなかった。もちろん映画や小説の解釈は人それぞれだし正解はない(年齢や境遇によっても変わるだろう。この映画はとくにそうだと思う)。製作陣や作者にはっきりした意図があったとしてもそれが唯一の答えではない。どう受け取ってもいいのだ。だが、「平山さんが目に涙をためた理由はそうではない!」と言い返したくなる自分がいた。平山がまるで実在の人物であるかのように。自分の近しい人でもあるかのように。 この映画の主人公である平山は公衆トイレの清掃員をしている。古びたアパートでの一人暮らしだ。清掃は手を抜かず、黙々と仕事をこなす。道具まで自分でこしらえている。夕方にはアパートに帰ってくる。銭湯へ行き、地下街にある居酒屋で食事をとる。寝落ちするまで布団で古本を読む。そしてまた同じルーティンの朝を迎えるのだ。観る人によっては、この主人公にイライラするようだ。上昇志向もなく、現実逃避をしている人物に見え
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生きる意味とは自他に優しくなることだと思う

  生きる意味とは自他に優しくなることだと思う。 華もなく、インパクトもない言い回しだけど、そう思う。  ここ10年、20年、この定義から動いていないような気もする。僕のなかでね。   優しさってなんなのだろう? 思いやりのことだと思う。  そして思いやりって何かって考えると、 想像力だと感じるんだ。 信じられないような事件とかが起こって、「なんであんな酷いことが人間にできるんだ?」って、みんな思うじゃない。 なんでできるかって言うと、けっきょく想像力が働かないからですよ。 どれだけつらいか、苦しいか、悲しいかがわからない。そういう人にはね。人に酷いことができる人間には。 他者の痛みが、きっと想像できないんです。 だから、優しさや思いやりの発端には 想像力があると思うよ。 その想像力の精度を高めること、 深めることが、 生きる意味なんじゃないかと思う。   そして、 だってやっぱり人は、 優しい人を求めてるしさ。 焦がれるほどに。 優しい人を探してるんだよ。 僕だってもちろんそうです。 優しい人と出逢いたい。 あなただってそうでしょ?   思いやり深い、 とびきり優しい人間になることが、 美しい季節みたいな優しい人間に移り変わっていくことが、 生きる意味なんじゃないかなぁ。 甘っちょろい定義だと顔をしかめた人もいるかもしれない。 でも、ここ数十年、動かないんです。 もっとカッコいい、 ハッ、とするフレーズをかましたいんだけどね。 この定義から動かない。本心を言えば。  あと── この先ちょっとややこしい話になるんだけど──  今回のタイトルは、「生きる意味とは〝自他に〟優しくな
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.5

田中 泯さん演じる、踊るホームレスは背中に焚き木を背負っているんですよね。これがヒントだろうなと映画館でも思っていました。次回の vol.6〈完結〉で、私の考察を書きます。平山は、いつもの神社で姪っ子のニコとお昼を食べる。平山が大木の写真をフィルムカメラで撮ったとき、ニコは、「その木は、伯父さんの友だち?」と聞きます。「そうだね。この木は友だちの木だ」と平山は答える。このセリフにも、親近感をおぼえました。僕は、「月」が友だちなんです。夜、晴れていると、外へ出て「月」をさがしています。見つけると、ほっ、とします。うれしくなります。あれだけ大きいのに、月を見あげている人って、たいてい誰もいないんですよね。近くの小山にのぼって、月を見ることもあります。月と二人っきりになる。癒され、からだが透明になっていくのを感じます。それでいて、「明日も生きていこうか」と静かな力も湧いてくるんですよね。独りの時間を持つと、そのぶん宇宙が、すっ、と寄り添ってきてくれるように感じます。ニコは平山に、パトリシア・ハイスミスの「11の物語」を借りていってもいいかと聞きます。「この『すっぽん』っていう話のヴィクターって男の子、わたしかもしれない」とニコは言う。「気持ち、めっちゃわかるってこと」と。「11の物語」は僕の部屋の本棚にもありました。さっそく「すっぽん」を再読しました。ヴィクターは11歳です。両親は離婚しています。父親が家にいません。〝ヴィクターは〟という三人称で書かれているのですが、ヴィクターの思考も地の文のなかに放りこまれる、「自由間接話法」のスタイルを小説はとっています。この話法が功を奏し、胸が
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.4

休日の夕方、平山は出かけます。フォークナーの「野生の棕櫚」も読み終えたようです。歯をみがき、口ひげを整え、つなぎの制服もカバンに入れます。クリーニングするのです。そして、腕時計をはめるショットがここで初めて出てくる。車のキーは残されます。自転車にまたがります。神社でお参りし、コインランドリーに寄ります。町の写真屋にも行きます。フィルムをあずけるのです。この店の主人は、アメリカ文学研究者で翻訳家の柴田元幸さんですよね。僕もずいぶんとお世話になっている翻訳家さんです。オースターとか、ミルハウザーとか。この柴田さん、演技も上手いのですよ。「上手いも何も、『こんにちは』とか『うん』くらいしか言っていないじゃないか」と思われる人もいるかもしれませんが、カメラの前でお芝居をした経験のあるかたならわかると思います。自然な動作で、これほど力を抜いてしゃべるのがどれほどむずかしいことかを。柴田さんはもっと映画に出られたほうがいいですよ。見事な演技でした。驚きました。役所広司さんと対等に芝居をされているのですから。すごいですよ。平山は古本屋に寄ります。100円コーナーで文庫本を買います。僕も古本屋さんには日常的に行きます。大好きです。Kindle Paperwhiteでも読みますが、やはり紙の本に愛着があります。線を引いたり、書きこんだり、しるしを付けたところをパッ、と見直すのにも、紙の本のほうが実はスピーディなんですよね。逆に Kindle 端末の利点は、文字のサイズを自分の好みにできるところでしょう。映画も、配信でも観ますが、本当に好きな映画は Blu-ray でそろえてしまいます。電子書籍と
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.3

この日も、いつもとまったく同じ朝のルーティンが映されます。ガラケー、財布、フィルムカメラ、車のキー、小銭、と順番に取っていくのも同じです。腕時計は、この日も棚に残されたままです。アパート前の自動販売機。ここで買われるのも、いつもと同じBOSSのカフェオレ。トイレを清掃する平山。木漏れ日にも時おり目を向けます。若い同僚のタカシが思いを寄せている(キャバクラ嬢らしい)アヤが来る。ミニバイクにアヤを乗せ、タカシはどこかへ行こうとするが、バイクの調子が悪い。タカシは、車を貸してくれと平山にせがむ。平山はしぶるが、アヤが立ち去りそうになるのを見、貸すことにする。平山は口かずは少ないが、思いやり深い性格であることがわかる。アヤを見ている平山の横顔のショットから、三人がすでに車に乗っている画面へジャンプする。スピーディーな編集がまたいいですね。車中のタカシが、アヤに説明するかたちで平山の人となりを語る。「メチャクチャ仕事できるけどメチャ無口」「メチャ道具とか自分で作ってる」。じゃっかん〝説明ゼリフ〟かなぁ、とも Blu-ray で見返していて思ったのですが、この状況だと現実・リアルでもこうなるかもなぁ、と考え直しました。じっさい映画館で観たときは、平山が道具まで作っていることをどうして自分は認識したんだっけ? と家に帰ってから思い返してみたのですが、わかりませんでした。タカシのセリフのなかにあったんですね。一場面のなかに溶けこんでいて、わざとらしくなかったということなのでしょう。アヤは、平山の持っているカセットテープを聴きたがります。「カセットの音、好きかも」とアヤが言うと、平山がうれしそう
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インフルエンザにかかったことがない僕が実践している思考法

「格が違う」とはっきり自覚するということです。 せっかくこの記事を開いてくださったわけですから、あなたにもこの自覚を持って帰っていただきたいと切に願っています。 奴らが毎年やっていることといったらなんでしょう? 人に高熱を出させ、はぁはぁ言わせ、苦しめているだけではないですか。あなたは人を苦しめたいですか? 高熱を出させ、はぁはぁ言わせたいなどと思いますか? むしろ人の役に立ちたい、喜ばせたいと考えて日々を送っているのではないですか? そうでしょう。私もそうです。だから「ココナラ」も始めました。「格が違う」のですよ。人を楽しませたい我々と、人を苦しめたい奴らとは。天と地ほどの差があります。 それをなんでしょう? 年末が近づくころからビクビクビクビクしだして、「また奴らが来るのか?」「また奴らの季節なのか?」、何十万人もがそんなふうに思うから調子に乗って〝猛威をふるい〟やがるんですよ。ヒドい年なんかは初夏が近づいているにもかかわらずニュースでまでやっています。「今年は暖かくなっても油断できません。猛威をふるう可能性があります」、まだおったんかい?! と私は憤りとともにいつも叫んでいますよ。格下も格下を、何を怖がっとんねん、と。 もしインフルとかいう奴が「イッヒッヒッ〜、怖いぞ〜」と寄ってきたら、あごを上向け、黒目だけを下げてこう言ってください。「おまえ誰に向かって口をきいとんねん」と。そして、おまえはむなしくないのかと。毎年毎年人を苦しめるのではなく、そろそろ喜ばせたいとは思わないのかと。私なら問いただします。 あなたはこう言うかもしれません。「いや、ひょっとしたら彼らにだって考
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僕が思う「成功者」の定義を語ります ──死と再生のメッセージ──

僕が思う「成功者」とは、寿命が尽きるその瞬間まで生ききった人です。頭の中に、クエスチョン・マークが飛びかった方もいらっしゃるかもしれませんね。それだけか? それだけで「成功者」だと言うのか? と。そうです、それだけです。そして、それはもの凄いことだと僕は思う。「成功者」というより、「大成功者」だと感じます。「大成功者」です。わけあって僕は、年間 かなりの数の死者をお見送りします。名前を聞けば誰でも知っている有名人の方もいらっしゃったし、富豪の方もいました。反対に、生活保護を受けていらっしゃる方も珍しくはありません。それらの死者を見送るとき、「あ、この人は立派な人だな、この人は成功者なんだな、この人は落伍者だったんだな」などと感じるかといえば、感じないのです。あるのは等しく、尊敬の想いというか、畏怖の想いというか、畏敬の想い、という言葉がいちばん近いかもしれません。いま、この方は、たった一人で、「死」というものを体験された。たった一人で、乗り越えられた。──もの凄いことです。とてつもない尊敬の念を覚えます。畏怖、という言葉さえ思い浮かびます。いえ、やはり畏敬、でしょうか。僕より少し先に、 この世を卒業していかれた、先輩を想うような気持ちも、そこには混じっています。 死者のお顔には、誇らしげで、若者のようでもあり、どこかホッとしているふうでもある、穏やかな、りりしい、美しい表情が浮かんでいることが多いです。「お疲れさまでした」と、 胸の底から絞り出るような想いとともに、僕は低頭しています。「よくがんばられましたね」と、さらに頭が下がってきます。心のなかでは手を合わせます。お疲れさま
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.6〈完結〉

タカシが急に仕事を辞めた翌日、サトウと名乗る女性清掃員が来るのですが、これが堂々としていて、実にカッコいいんですよね。職種うんぬんではないのです。自分が自分の仕事をどう思っているかどうか。そして大切なのは、自己イメージなんだと思う。きっとサトウは、見事な清掃作業をするのでしょう。自らのサービスに自信を持っているのでしょう。そういう人は、すてきに見えます。どんな職業であろうと。その人物が、どんな見た目であろうと。サトウと会ったあとの平山の顔はうれしそうです。サトウと平山のいる世界は、つながった・同じ世界なのかもしれません。そして、田中 泯さん演じる踊るホームレスの男。平山は交差点で男を久しぶりに見かけます。交差点の中央で、男はいちど両手を上げ、回れ右して戻っていきます。背中には、やはり焚き木が背負われている。この男はなんなのでしょう? なんの隠喩なのでしょう?この男は、 実家との縁を失って〝ホームレス〟となった平山の闇の部分をあらわすメタファーなのだと僕は思っています。焚き火を背負っていますから、何かのはずみで火がつき、〝怒り〟が再燃するかわからない。妹・ケイコの話によれば、父親もいまや老人ホームにおり、「いろいろもうわかんなくなってる」らしい。それを聞いた平山は、長年くすぶりつづけていた父親へのわだかまりが消え去ったのではないか。おき火のように芯の部分がまだ赤かったものが、心から取り除かれた──。よって平山の負の部分の象徴であるホームレスの男はきびすを返し、去っていった。おそらく、永遠に。この考察が正解なのかどうかはわかりません。正解などというものはそもそもないのです。作り手側
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.2

平山は神社に昼食をとりに行きます。鳥居をくぐるときに一礼する平山。境内のベンチでサンドイッチを食べるのです。平山は、大木を見あげ、フィルムカメラで葉むらを撮影します。木の下に生えていた小さな草木を丁寧に掘り、持って帰ったりもします。清掃するシーンがまた描写される。その後、大木に絡みつくようにして踊る・ホームレスらしき男(田中 泯)が初めて画面に映る。この不思議な男は何のメタファーなのだろうか、という話に当然なると思います。のちほど私の考察も書きます。この説は、いまのところネット上などでは見かけません。平山は仕事を終え、まだ陽も高いうちにアパートに帰ってきます。話は少しズレますが、これでいいのではないかと個人的には思います。人は、このくらいの時間に帰宅してもいいのではないか、と。毎日、夜遅くまで働く生活のほうが不自然ですよ。あなたはどう考えられますか。平山は玄関わきの棚に、小物をまた並べていきます。車のキー、フィルムカメラ、財布、ガラケー、と。 朝、取っていったのとは逆の順番に。ここでは「シャレード」と呼ばれる映像表現が使われています。やや病的ともとれるこういった行為を見せる・映す、ことによって、平山の几帳面さを伝えることができるのです。映画らしい技法のひとつと言えるでしょう。しかしながらこのテクニックは、小説などの文章表現でも使えます。文芸の場合は地の文でなんでも簡単に説明できるので、「彼は病的に几帳面な男であった」と、ついやってしまいがちなのです。この文章だけでは、どういった点が〝几帳面〟なのかがまったくわかりません。我われ書き手こそ「シャレード」という技法を意識し、説明する
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「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.1

「PERFECT DAYS」の Blu-ray を購入してじっくり観直してみました。最初のショットは夜明けの東京です。ラストのカットも東京の夜明け。つまり、ルーティンとしての平山の生活は変わっていないわけです。それが示されている。でも、ささやかではあるけれど、その数日間にいろいろなことがあった。平山の〝影〟は、出会った人物たちの〝影〟と重なり、より深まった。ゆえに最終場面の、あの泣き笑いにも似た表情となったのでしょう。オープニングから順番に観ていきます。朝、近隣の老女の使う竹ぼうきの音──、60代であろう男が目を覚まし、布団をたたむシーンから物語は始まります。確信に満ちたような男の動作に惹きこまれます。部屋のなかにある植木に、霧吹きで水をやるシーンがつづく。葉を守るようにかざされた左手。水をやり終えたあと、草木を愛でる純朴な瞳、表情。この男・平山の持つ雰囲気に、早くも言い知れぬ好感をいだきます。きわめつきは、扉を開けて空を見あげたときの微笑ですね。これでこの初老の男に魅了されてしまうのです。僕は思うのですが、こんな表情で朝を迎えられたら、その人はもう「成功者」なのではないでしょうか。どのような職業についていようと、です。ワクワクした気持ちで布団から出、上機嫌で家の扉をあけられる人こそ成功者だと思う。幸福者です。心から、そう思いますね。平山は家のドアを開ける前に──きちんと並べられた──ガラケー、財布、フィルムカメラ、車のキー、と順番に取っていきます。次の腕時計、にも一瞬手をのばすのですが、やめます。これは明らかに伏線ですね。劇場でも察しましたが、伏線でした。デリケートな、ほのめ
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その哀しみがあなたを

 その哀しみがあなたを落ち着きのある人間にしたのです。あの哀しみがあなたを、深みのある人間にしたのです。哀しみは肉体的な痛みに近いくらい時にはそれ以上の傷みを伴うけれど、その哀しみが、いまのあなたを作ったのです。哀しみを体に収めた人は、草花の癒しに気づくようになります。動物の愛らしさに。空の分けへだてなさに。「美味しい」ということが慰めであることにも気づきます。音楽の言葉が、詩の旋律が、心の底まで届く人にもなります。すでに世を去った表現者たちと親友になることもできるのです。同じ哀しみを知った人を、深い目で見つめることもできます。だから、哀しみと共に歩むあなたをどうか哀しまないで。その うれい を、ちん、と沈めたまま、ほほ笑めるご自身を尊重してあげてください。あなたにしか見えないきれいなものがあります。あなたにしか感じられない豊かさがあります。あなたにしかない、想像力も宿ったのです。哀しみがあなたをそういう人にしたのです。あたたかに澄んだ、ほほ笑みの深いあなたに。  
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映画「PERFECT DAYS」鑑賞記 ──人間にとっての幸福とは何か── vol.3〈完結〉

そして翌朝のラストシーンがくる。清掃するトイレの待つ、渋谷区へ向かう車中の平山のアップ。なぜ平山さんは目に涙をためるのだろうか。泣き笑いのような表情になるのか。感情がせわしなく行き来しているように見えるのだろう。本当に、自らの生活をみじめだと感じているからだろうか。私はそのようには思えなかった。平山の日常で直前に起こったことといえば、姪のニコや、妹・ケイコとの再会だ。そして、小料理屋のママの元夫・友山との出会い。それにより、平常は「いま・ここ」のもたらす静かな幸福を感じているであろう平山の心は過去や未来を行き来しだす。過去にあった実家との揉めごと。浮かび上がるいくつかの場面。父親との激しい応酬。受けた心の傷。その父親もいまは老人ホームにいるという。親を100パーセント憎める子どもなどいない。愛憎相半ばするから苦しい。それは涙もにじむだろう。姪っ子のニコとの再会。二人で隅田川を見た、自転車で桜橋を渡った、いままで経験したことのない感情。「海、行く?」「こんどね」と平山は答える。二人で歌った「こんどはこんど、いまはいま」。そのこんどは、たぶん来ない。平山はそのことも承知している。早朝の高速を走りながらそれは涙もにじむだろう。あのときの「いま」の、なんというまぶしさよ。それは涙もにじむだろう。未来はどうか。元夫である友山の言動から察すると、今後ママとの関係は今よりも親密になるかもしれない。唇もしぜんと笑みのかたちを作るだろう。だが元夫は、遠からずこの世を去るのだ。つかの間でも心をかさね合わせた友山が。笑んだ唇はまた苦渋のかたちに歪むだろう。妹のケイコが娘を引き取りにきた夜、平山はニコ
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映画「PERFECT DAYS」鑑賞記 ──人間にとっての幸福とは何か── vol.2

その後に起こる大きな出来事といえば、やはりこれだ。平山が恋心をいだいているであろうママのいる小料理屋(開店の少しまえの時間だろう)に行ったとき、見知らぬ男性とママが抱き合っているのをドアのすき間から見てしまう。平山は逃げるように走り去る。河川敷で缶ビールをあおる。ママと抱き合っていた男性がそこへ来るのだ。追いかけてきたものらしい。その男は元夫だった。難病におかされていて、余命いくばくもないであろうことが知れる。「あいつをよろしくお願いします」と男は言う。お願いします、と繰りかえす。この場面は、リアリティがないように思える人もいたかもしれない。だが 死を覚悟したとき、人はこれまでの人生で出会った大切な人たちに、もういちど会いに行きたくなるときがある。あやまりたくなるときが。ありがとうを伝えたくなるときが。その人たちが幸せでいてほしいと願うときが。心が透き通ってしまうときが、あるのだ。元夫・友山は、そういう心境だったのではないか。 平山が逃げ去ったあと、「あの人は平山さんといって──」という会話も当然ママとなされたはずだ。その口調、表情で、元妻の気持ちも友山は察したはず。この世的な自我がなかば浄化されているであろう友山が、気がつけば平山を追いかけていた、──不思議ではないように思う。そして影踏みのシーンがくる。友山は、「影ってかさねると濃くなるんですかね」と不思議なことを言う。「わからないことだらけだな。けっきょくわからないまま終わっちゃうんだなぁ」と。「やってみましょうか」と平山は答える。街灯のまえに立ち、二人はじっさいに影と影とをかさねる。「変わらないかなぁ」と友山はさびしげに
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