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上智大学推薦入試 (公募制) 総合人間科学部看護学科小論文2017年度【学びの本質】

(1)問題 問 以下の文を読み、あなたの考えを800宇以内で述べなさい。 ①「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらずこれを学ぶことぶことがいずれ生き延びる上で死活的な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。「学び」はそこからしか始まりません。私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、学び始める時点では言い表すことができない。それを言い表す語彙や価値観をまだ知らない。その「まだ知らない」ということがそれを学ばなければならない当の理由なのです。そういうふうな順逆の狂った仕方で「学び」は構造化されています。 ②「学ぶ力」というのは、あるいは「学ぶ意欲(インセンティヴ )」 というのは、「これを勉強すると、こういう 『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。子どもたちに、「学ぶと得られるいいこと」を、学びに先立って一覧的に開示することで学びへのインセンティヴが高まるだろうと彼らの多くは考えていますが、人間というのはそんな単純なものではありません。「学ぶ力」「学びを発動させる力」はそのような数値的・外形的なベネフィットに反応するものではありません。 ③「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が
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北里大学看護学部2023年「差別される側の声と痛みに向き合う」

(1)問題①  混んだ電車の中で、思わず誰かの足を踏んでしまうことがあるでしょう。そのとき、混んでいればいるほど、自分の足が誰かの足を踏んでしまっていることに気づきません。というか東京のような殺人的なラッシュでは身動きすらできない状況にまでなることもしばしばですが。いずれにせよ、「痛い!」という叫びや「足をどけでください!」と言われて初めて、私たちは気づき、「すみません」と謝り、なんとかして足をどけることになります。このとき、〈踏まれる―踏む〉という立場は明確に異なっているし、「痛い!」「どけてください!」と声をあげるのは、あくまで踏まれている側です。(中略)②  差別の場合も状況は似ています。差別が差別として、世の中に立ち現れるのは、差別を受けた側が「痛い!」「なんとかしろ!」と世の中に向けて「声」をあげるからです。差別を受けることで経験する苦しみや悲しみ、怒り、憤りなど、「声」をあげ、自らが差別を受けるような世の中の不条理に対して抗議し、異議を申し立て、世の中を告発する営みがあって初めて、差別の輪郭が明らかになってきます。③  「声」をあげるうえでの前提として重要なきっかけが、差別を受けた人の主観的な判断であり情緒的な憤りです。その意味で差別は個人的な感情やある人々のまとまりで共有された情動から生じるのです。④  こうした事実は、典型的な差別事象であるハラスメントを考えれば、より明らかになります。セクシュアル・ハラスメントにせよ、パワー・ハラスメントにせよ、ある体験が耐え難いハラスメントだと主張される根拠は、被害者の主観的な痛みであり傷なのです。主観的であれば、個人の気持ち
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