「近代の論理~社会科学のエッセンス~⑬」 (5)イスラーム圏と東洋の「近代化」の困難
①「近代化」とは畢竟「西洋化」「キリスト教化」に他ならない
「イラン革命」の原因はパフレヴィ―2世の近代化政策・西洋化政策~イスラーム世界における拠点国家は、「アラブの盟主」エジプト、聖地メッカ・メジナを抱え、世界中のムスリムにとって「信仰の祖国」であるサウジアラビア、シーア派の中心であるイラン、ケマル・アタチュルク以来、イスラーム世界の政治的指導者スルタンも宗教的指導者カリフも廃止して、近代西欧型の世俗化政策を取り、NATOに加盟して、EU加盟を目指すトルコ共和国の4つですが、この中で1979年に「イラン革命」が起き、第2次オイル・ショックが起きるほど、世界に衝撃を与えました。 イラン国王パフレヴィ―2世は父である先代のレザー・シャーの退位により即位し、1963年に「白色革命」を起こして、アメリカの援助による近代化を行なっていたのですが、国外追放され、フランスにいたシーア派指導者でウラマー(イスラーム法学者)のホメイニが帰国し、イラン革命を主導してイラン=イスラーム共和国を成立させるのです。パフレヴィ―2世時代のイランでは、独裁政治で秘密警察による弾圧・拷問が日常茶飯事のように行われ、欧米のメジャーと国王のみが儲けて、国民は猛烈なインフレ下で生活苦にあえぐという社会状況でしたが、それだけなら世界中の独裁者が今でも似たようなことをしており、その度に革命が起きるわけではありません。イラン革命の真の原因は、パフレヴィ―2世がイスラーム社会の伝統をふみににじる改革を次々と行い、クルアーンの教えを無視したと捉えられたからなのです。
ちなみに「シーア」とは「党派」の意味で、「シーア=ア
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