周囲が「こういう人物だからこう評価すべき」と騒いでいても、それ自体はおれの評価軸にはならない。
あなたがそう見たことと、こちらがどう見るかは別の話でしょう。
善悪を超えて見るって、善悪が存在しないという意味じゃない。
それだけを人物評価の物差しにしないということ。
互いが存在することで初めて生まれる輪郭を見ながら、そのあいだに生じる拮抗点を探す方が、ずっと興味深いんですよ。
たとえば、ある人が前へ進むために何かを切り離した。
その現場に血糊や残骸が残っていたとしても
そこであーだこーだ裁判を始めるより
「……まーた派手にやりましたね 笑。」
と言いながら、残ったものを循環へ呑み込ませて痕跡ごと無へ返す役をするだろな。
そして隣に戻って
「終わりましたよ。
行きましょうか。」
振り返った相手が
「…何をしたんですか?」
と聞けば
「後処理ですよ笑。」
できることが違うから、互いにできない仕事を引き受ける。
案外最高なバディかもしれん。
何を言いたいかって笑
想像にお任せします。
話を戻すけど、人物を見ていたはずが いつの間にか周囲が作った人物像を見せられていることがある。
誰かの感想には考察や共感が乗る。
そこへ目立ちたい気持ちまで乗っかって、同じ解釈が何度も反復される。
「私はこう感じた」が「こう感じるべき」に化け始める。
ん? 結局のところもう当の本人どこ行ったんだよ。
そこから戻ってこないの? 笑
好きな人がそのもの自体を好きなのはいい。
その好きが寄り集まって別の生き物になり、本人に乗っかり始めるところがムダに面白い。
しかも乗っかってる側は、自分たちがそいつを育てていることに気づいているのかね。
何か権威のあるものを糧にして社会現象を我がものにして目立ちたいだけなんじゃないの?
と思う場面もある。
借りてきた熱狂で声を大きくして、その声を自分の力だと思い始めるのはなかなか愉快なんだよね。
作者がその人物を動かした瞬間に「そんなことはしない」「解釈違い」「作者は分かってない」となったら、もう妙な話でしょう。
作った本人まで、周囲が育てた像に採点されるんだから。
人気が出て創作として成功した。
その成功で人物像が固定されて次の一歩にまで注文がついていく。
このパラドックスはいかに。
その巨大な像に覆われた人物が不憫に見えることがあるんですよ。
みんな知ってる顔で語っているのに、誰の話をしてるんだろうね。
諸君よ、知ってるように憶測でものを測るな。固定観念で甘んじて動くな。
見えたものだけを軽々と信じるなよ。
その「見えたもの」にさえ、誰かの解釈が先に乗っかってるかもしれんのだから。
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