自由であろうとするほど、宿命に近づいていく

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人は、自由になりたいと思う。

誰にも決められたくない。常識に従いたくない。環境のせいにしたくない。親のせいにも、社会のせいにも、運命のせいにもしたくない。自分の人生くらい、自分で選びたい。自分の手で切り拓きたい。そう思って、人は抗う。

少なくとも、私はそうだった。

与えられたものに、そのまま従うことが嫌だった。こういう人間だから、こういう場所にいるべきだ。こういう生まれだから、こういう役割を担うべきだ。そういう見えない決めつけに対して、いつもどこかで反発していた。自分の人生を、最初から誰かに書かれた物語にしたくなかった。

だから、抗ってきた。

自分で考え、自分で選び、自分で道を作ろうとしてきた。遠回りもした。無駄に見えることもした。人から見れば、もっと素直に進めばよかった道もあったはずだ。けれど、私にとっては、その抵抗そのものが必要だった。抗わずに受け入れたものは、本当の意味で自分のものにならないからだ。

しかし、抗って生きていると、あるとき必ず「どうしても抗えないもの」に出会う。

努力では変えられないものがある。理屈では超えられないものがある。どれだけ否定しても、何度も同じ場所に戻される感覚がある。逃げたはずのテーマが、別の顔をして目の前に現れる。捨てたはずの役割が、形を変えてまた手渡される。

そこで人は初めて気づく。

これは負けではない。ここに、自分の人生の筋があるのだと。

宿命とは、最初から自由を奪う檻ではない。むしろ、自由に動き回った先で、どうしても消えずに残るものだ。何を選んでも、何を捨てても、最後に手の中に残ってしまうもの。それが宿命である。

だから、宿命は最初から信じるものではない。抗い抜いたあとに、認めざるを得なくなるものだ。

最初から「これは宿命だから」と言ってしまえば、それはただの諦めになる。自分の怠惰や恐れに、立派な名前をつけただけになる。一方で、「すべては自由だ」と思い込むこともまた、どこか嘘になる。私たちは何でも選べるようで、実際には何度も同じ問いに呼び戻される。どう生きても、避けられない主題がある。

自由と宿命は、対立していない。

自由とは、宿命から逃げる力ではない。宿命にたどり着くために、あらゆる道を試す力だ。抗うことでしか、本当に受け入れることはできない。逃げることでしか、自分が逃げられないものを知ることはできない。選び続けることでしか、自分が選ばされていたものの輪郭は見えてこない。

自由であろうとすればするほど、人は定められていたシナリオに収束していく。

それは操られているという意味ではない。むしろ逆だ。自分の意志で選び、自分の足で歩き、自分の痛みで確かめたからこそ、最後に「これが私の人生だった」と言えるようになる。

宿命を受け入れるとは、人生に敗北することではない。

さんざん抗った末に、それでも残ったものを、自分の名前で引き受けることだ。これは押しつけられた人生ではない。私が抵抗し、選び、迷い、戻され、それでも最後に納得した人生である。そう言えるところに、人間の自由がある。

自由とは、何者にでもなれることではない。

どこまでも抗った果てに、「私は私でしかなかった」と笑えることだ。
宿命は、檻ではなく私に与えられた物語であったと気づく。

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