看護って、もっと特別で、もっとむずかしいものだと思っていました。
でも今は、そんなに遠いものではないのかもしれないと思うようになりました。
判断すること。
観察すること。
相手に必要なことを考えること。
技術や経験を積み重ねること。
そういうものがあってこそ、看護なんだと思っていたんです。
もちろん、それは今でもとても大事です。
知識や技術があるからこそできることも、たくさんあります。
でも、看護って、もっとシンプルなものなのかもしれない。
最近は、そんなふうに思うようになりました。
転んだ人に思わず手を差し出すこと。
おなかが痛いと泣く子どものおなかを、そっと撫でること。
失恋してつらそうな親友の背中を、何も言わずにさすること。
それって、すごく特別なことではないですよね。
でも、そこにはちゃんと、相手を大事に思う気持ちがあります。
看護も、きっと同じなんじゃないかなと思うんです。
看護の看という字は、手と目でできていると教わることがあります。
手でふれながら、目でよく見て、その人を護る。
そんなふうに考えると、看護には技術だけではない、相手を気にかけるまなざしや、そっと寄り添う気持ちが込められているように感じます。
そして、手当てという言葉も、手を当てることからきていると言われています。
痛いところにそっと手を当てること。
苦しいときに、少しでも安心してもらえるようにふれること。
その行為には、ただ触れるだけではない、その人を思う気持ちがあるように思います。
手当ては、想いをのせた手を当てること。
そのぬくもりに癒されながら、人は少しずつ回復に向かっていく。
私は、そんな関わりも看護なのだと思っています。
看護の原点も、そんなところにあるのかもしれません。
そう思うようになってから、もうひとつ感じることが出てきました。
看護をする手に、ちゃんと想いをのせるためには、
自分自身の心にも、手や目を向けてあげることが大事なんじゃないかということです。
しんどいのに気づかないふりをしたまま。
つらいのに大丈夫と言いながら。
自分の気持ちを後回しにしたままでは、
やさしさを届ける手も、少しずつ疲れてしまうのかもしれません。
いつも誰かのことを気にかけているからこそ、
ときには自分にも、同じように目を向けてあげたい。
ちゃんと疲れてないかな。
無理してないかな。
少し休めそうかな。
そんなふうに、自分の心にもやさしくしてあげたいなと思うのです。
そしてこれは、看護職だけに限られたことではないようにも思います。
どんな仕事も、人と人とのつながりの中にあります。
仕事の内容は違っても、目の前の相手を思うことや、相手のためにできることを考えることは、きっとどの仕事にもあるはずです。
どの職種で頑張っている人も、相手を思うのと同じように、自分自身にも手当てをしてあげることができたらいいなと思います。
どんな仕事も、人と人とのつながりの中にあって、はじまりもゴールも相手を思う気持ちなのかもしれません。そんなやさしさは、きっと誰の中にもあるのだと思います。