今までの人生で、自分が「普通ではない」と感じる場面は少なくなかった。
幼いころから自他ともに認める「変人」で、そのことをどこか誇りに思っていた節さえある。人と違う発想をすることも、自分らしさだと思っていた。
しかし、大人になるにつれて事情は変わった。社会には「普通に働く」「普通に人付き合いをする」「普通に生きる」といった暗黙の基準があり、それを満たせない自分に焦りや劣等感を覚えるようになった。やがて社会そのものが怖くなり、長いあいだ隠遁生活のような日々を送っていたこともある。
けれども、改めて考えてみると、「普通」という言葉ほど曖昧なものはない。
結局のところ、「普通」とは、ある特定の集団の中で標準や理想とされる性質にすぎない。その集団では普通でも、別の集団へ行けば少数派になることはいくらでもある。国が変われば文化も価値観も変わり、時代が変われば「当たり前」も変わる。
つまり、「普通かそうでないか」という区別には絶対的な基準などなく、自分が今どのような人々に囲まれているかによって大きく左右される相対的なものなのだ。
だから、「普通」になろうとして自分をすり減らすよりも、合わせられるところだけ合わせ、「自分は自分だ」と割り切ることのほうが大切なのかもしれない。
日本社会がどうしても合わないなら海外へ行くという選択肢もあるし、自分と価値観の異なる人を無理に説得しようとする必要もない。自分が生きやすい環境を探すことは、逃げではなく、自分を守るための一つの戦略である。
「現実」とは、「多くの人に共有された妄想」にすぎない、と言うこともできる。
もちろん、一人だけで生きていくことは難しい。だからこそ、周囲の現実と折り合いをつけながらも、まずは自分にとっての「普通」を自分自身が認めることが大切なのだと思う。そして、その価値観を分かち合える人たちと少しずつつながっていけば、「普通」という言葉に縛られ、息苦しさを感じることも次第に少なくなっていくのではないだろうか。