麦茶ゼロ事件

麦茶ゼロ事件

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真夏になると、生活の中で小さな事件が連続発生する。

最近の事件は、あまりにも身近で、あまりにも深刻な「麦茶ゼロ事件」だ。


昼下がり、喉が砂漠化したタイミングで冷蔵庫を開ける。

そこには、透明なピッチャーの底の´数摘だけ´残った麦茶が、まるで生存者のようにひっそり佇んでいる。 

その数滴が、こちらに語りかけてくる気がする。

「ごめん…もう無理…」 


飲める量ではないのに、存在だけは妙に主張してくる。

しかもその数滴、なぜか´希望の光´みたいな顔をしてるのが腹立たしい。


昨日の自分が麦茶を作らなかったせいだ。

夜の私は「明日の私がやるだろう」と未来の自分に丸投げした。

そして今日、その未来の自分が被害者になっている。

これはもう、自分同士の時空を越えた裏切り事件だ。


結局、ぬるい水で妥協することになる。

コップの水がぬるいのか、自分が暑すぎるのか、もはや判別不能。

ぬるい水を飲みながら、私は悟る。

「麦茶って、こんなに偉大だったのか」


仕方なく麦茶を作ろうとするが、気温35度の中でやかんを出すのはほぼ儀式。

湿度で腕がベタつき、やかんの取っ手が´重量2倍´に感じる。

麦茶パックを入れるだけなのに、なぜか´修行の一環´みたいな気分になる。


やっと作り終えて冷蔵庫に収めると、ピッチャーが満たされていく様子がまるで生活の安心感が戻ってくる瞬間のようだ。

これだけで、部屋の気温が2度下がった気がする。


今日作った麦茶、明日の私よ、頼むから残しておいてくれ。

そして明日の私、どうか未来に私に丸投げにしないでくれ。

この事件、もう何度も起きているんだ。



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