人を遠ざける心が、自分を閉じ込める。
「孤毒」という生き方
電車に乗っているときや、ジムに行ったとき、目につく姿があります。
口にはマスク。
耳にはワイヤレスイヤホン。
そんな姿を見ていると、私はふと考えます。
私たちはいつから、これほど外の世界との間に壁をつくるようになったのだろうか、と。
私には、口を覆う姿が「しゃべりたくない」「受け入れたくない」、
耳を塞ぐ姿が「聞きたくない」という心の状態と重なって見えることがあります。
本人がそう意識しているかどうかとは別に、外との関わりを閉じることが、日常の当たり前になっているのではないでしょうか。
自分を守ることが、人を拒むことになっていないか
感染症騒動が始まってから、人と距離を置くことが広く日常に入り込みました。
そのなかで、私は感染症への恐怖だけでなく、人そのものへの拒絶感も広がったのではないかと感じています。
誰かと関わること。
自分と違う考えを聞くこと。
相手の表情を見ながら、言葉を交わすこと。
そうした関わりまで、遠ざけるようになっていないでしょうか。
その背景には、次のようなことがあると私は考えています。
① 感染症について、自分が何を知らないのかに気づいていない
② メディアの情報に、自分がどれほど影響されているかに気づいていない
③ 自分で調べる習慣がない
④ 自分で考える習慣がない
これは、誰かだけに向けた話ではありません。
私自身も含めて、「自分は知っている」「自分は考えている」と思ったときほど、立ち止まって確かめる必要があると思っています。
自分の不安は、どこから来たのか。
その考えは、自分で確かめて選んだものなのか。
そこを問い直さないままでは、不安を理由に人を遠ざけ続けることになってしまいます。
自分でつくった檻に、閉じこもっていないか
人への拒絶感が強くなることは、「一人になりたい」「誰にも入ってきてほしくない」という心の表れでもあると私は考えています。
人は、誰かとの関わりのなかで生きる存在です。
それなのに、自分を守ろうとするあまり、その関わりを自ら手放してしまう。
イメージで言えば、怖いものが入ってこないように、自分で檻をつくり、その中へ閉じこもるようなものです。
最初は安心するためにつくった檻だったはずです。
けれど、いつの間にか人の声が届かなくなり、違う考えを受け入れられなくなり、外に出ることまで怖くなってしまう。
私は、この状態を「孤毒」と呼びたいと思います。
一人で過ごす時間そのものではなく、人を拒む心が、自分自身を閉じ込めてしまうこと。
その孤独が、心のなかで毒のように働いてしまうのではないかと感じるのです。
「怖い」の先に、話せなくなっていないか
私が気になるのは、感染症が怖いと思う人と、落ち着いて話し合うことが難しくなっていると感じる場面です。
「なぜ怖いのか」
「何を根拠に、そう考えているのか」
「別の見方を聞いたら、どう感じるのか」
こうした問いを交わす前に、相手を拒んでしまう。
それでは、お互いの考えを知ることも、自分の不安を見つめ直すこともできません。
人と話すことは、自分の考えを押し通すためだけにあるのではないと思います。
自分では気づけなかったことに気づく。
自分の心が、何を怖がっているのかを知る。
そのためにも、人との関わりは必要なのではないでしょうか。
外の空気と、自分の心を感じてみる
外の空気を感じられる場所で、マスクやイヤホンを外して過ごす時間をつくってみませんか。
顔に触れる風。
周囲の音。
目の前にいる人の表情。
普段、閉じていた感覚に意識を向けてみる。
そして、自分にも問いかけてみてください。
「私は何を遠ざけているのだろう」
「誰と関わりたくないのだろう」
「何が、そんなに怖いのだろう」
自分の心がつくった檻に気づくことが、外へ出る一歩になるのだと思います。
人と関わることに疲れている方へ
「人と関わりたくない」
「誰かの言葉を聞くと、疲れてしまう」
「一人でいたいのに、寂しさもある」
「不安が強く、自分の考えから抜け出せない」
そんな気持ちを抱えている方は、一度、ご自身の心の状態を整理してみませんか。
あかつき道整骨院では、身体の不調だけでなく、食生活、生活習慣、考え方、人間関係、家族関係なども伺いながら、
ご相談をお受けしています。
何を拒み、何を守ろうとしているのか。
本当は、どのように人と関わりたいのか。
うまく言葉にできなくても構いません。今、気になっていることからお話しください。