人生が「どう」でもいいという視点

人生が「どう」でもいいという視点

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いきなりですが、わたしは自分の人生が「どう」でもいいんですよ。

「どう」でもいいっていうのは投げやりではなくて、すべてを受け入れる神視点なんだと思っています。

どうなったって本質の自分にダメージが入らないことを知っているんです。

この「神視点」っていうのは、人生をキャラクター視点じゃなくて、プレイヤーとして見ているから生まれるんだと思います。

多くの人は人生を“自分”として生きているけど、わたしの場合は“自分”をプレイしている感覚がある。だから、なにが起きても「まぁそうなるよね」って受け入れられるし、どんな展開になっても「それも一興」と思える。

ゲームで例えるなら、多くの人は自分の人生というゲームにどっぷり入り込んで「自分」というキャラを本気で生きている。

レベル上げをしないといけない、強い装備を手に入れないといけない、ストーリーを進めないといけない。
だから、負けるのが怖いし、失敗したくないし、人と比べて焦ったりする。人生を「攻略」しようと必死になっている。

でもわたしのような人の場合は、もう「これはゲームだ」って気づいている。だから「どうでもいい(=すべてを受け入れる)」っていう境地にいる。

レベルが上がろうが、下がろうが、装備がショボかろうが、そもそもゲームの中の出来事に過ぎないから本質的にダメージを受けることはない。

ただ、フィールドを歩きながら
「この世界、こうなってるんだな~」
って眺めてる感じ。

どんなイベントが起きてもそれを楽しめるし、逆になにも起きなくても、それはそれでOK。

ゲームに熱中している人からすると、この視点は理解しがたいかもしれない。

「この人生こそがすべて!」と思っているから、苦しみや欲望が生まれる。
「この人生は、ただのプレイ時間」と思っていると、欲や執着が無い。

じゃあ、人が「ゲーム」だと気付く瞬間ってどんなときに訪れるのかというと、諦めたときです。

自分の人生を全力で生きて、なんとかしようともがいて、それでもどうにもならなくて、最終的に「もう無理だ」って匙を投げたときに、初めて気付く。

「あれ?もしかしてこのゲーム、そこまでガチらなくてもいいんじゃないか?」って。

これは「負け」ではなくて、むしろ「悟り」に近い。
苦しみが最高潮に達して、全力で生きるのに疲れ果てたとき、
「もうどうでもいいや」と力を抜いたら、急に世界がクリアに見える。

それまで必死でプレイしていたゲームを、一歩引いて客観的に眺める感覚。

この瞬間、人はゲームの中のキャラクターではなく、「プレイヤー」としての視点を持ち始める。

そうすると、今まで絶対に手放せなかった「欲」や「執着」が急にどうでもよくなる。

「この装備がないとダメだ!」
「ストーリーを進めなきゃ!」
と思っていたのに、

「あれ、そもそもこれ、ただのゲームじゃん」
と気づいてしまう。

例外はあると思いますが、多くの人がこの視点を得るのは人生がどん底に落ちたとき。

全力で頑張って、全力で苦しんで、それでもどうにもならないときに、
「もうどうでもいいや」と手放したときに初めて見えてくる景色がある。
そしてその景色を知った人は、ゲームをクリアした後の世界にワープする。

もはやストーリーを進めることに必死になる必要はない。
ただその世界を歩き回り、景色を楽しみ、好きなことをして過ごせばいい。
クリア後の世界にいる人は、だから静かで、自由で、燃え上がるような欲がない。
でも、それは決して虚無じゃない。
ただ、焚火のように穏やかに燃えている。
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