骨折から二ヶ月半。
私は、右肘の痛みがかなり収まってきているのを感じていた。
そのため、車の運転を先週から再開している。
Xを助手席に乗せ、
近所をぐるぐる回る。
それが徒歩30秒の歯医者以外に、
Xが外出できる数少ない機会だ。
ただ警戒も怠らない。
あの私の骨折は、
Xが社会に自分を表現することを躊躇していたことによるもの。
それが第一の理由だと、
私もXも考えている。
だから、Xが自立のために自己を社会に表現する歩みを止めてはいけない。
そのため、Xの個人誌の第二弾も作成中である。
第1弾の委託も申し込んである。
そして、Xはそれ以外になにか見逃していることがないか。
そのことをとても警戒していた。
そのため、私は、
かねてから気になっていたことをXに提案した。
これから籍を抜いて一人で生きていくであろうXにとって、
重要なのが、自分の買い物を自分でできることだ。
ただ、無理に外出して買い物する必要はない。
なにしろ、今の世の中ネット通販が拡大している。
Xは、宅配スーパーやAMAZONを利用しているし、
緊急時を除けば、大抵のものは、送料を負担できれば、
手に入れることができる。
そのため、重要なのは、
「いざというときは、外出して自分で買い物をすることも可能」
という自信だ。
ちょうど春の季節替わり。
Xの冬のもこもこした靴では少し暑い季節になってきた。
近所の靴店に入店してみる。
これが私がXに提案した、
「盲点」である。
X自身は、なにか「人間的欠陥」が、どこかにあり、
それが盲点になっているのではと考えていたようだ。
しかし、私の提案した「行動」が盲点との指摘に、
いたく感謝していたようだった。
Xだけでなく、エンパスの人は、
そのように考えてしまうものなのかも知れない。
前置きが長くなったが、
本日のドライブでは、靴店の駐車場に車を止め、
まずは入店しなくても、そこで車を降りてみること。
そう二人で計画した。
ただ、車から降りたら、
おそらくXは自ら靴店に入ると言い出すと感じていた。
長い付き合いである。
エンパスによる体調不良を慮り、
念のため、駐車場までとしておいた。
しかし実際には、ちゃんと踏み込んでいくタイプだと、私は知っている。
案の定、車を降りると、
「中に入ってみようかな」と言い出したので、
中で靴を選び、無事購入することができた。
あんなに買い出しどころか、
外出すらできずに来た数年だったのに、
あっさりとこうして入店しての買い物ができたのだから、
やはりなにか流れが変わってきているのだろうと思った。
そのあと、トータルで二時間ぐらいのドライブを終え、
最後に薬局にも入ってみることにした。
しかし、そこでよもやの事態が起こっていたことに、
私はその時、気づかなかった。
帰宅後、Xは少し表情を曇らせて言い出した。
「なんにも変わっていない」
なんのことかと思いきや、
薬局にいた人々に対し、エンパスが発動し、
ひどく混乱恐怖してしまっていたようなのだ。
「ああいうところに入っても、大丈夫にならなきゃいけないのに、
前に住んでいたところで感じていた嫌な感じがなんにも変わっていない」
正直、私は一瞬、イラッ!!!!とした。
そりゃ、エンパスなんだから、
ダメージは受けるだろう。
それよりも、いらだちのポイントは、
「大丈夫にならなきゃいけないのに」だ。
それじゃ、ありのままの自分を受け入れたことにならないだろう。
大丈夫になった自分への憧れで、エンパスという現実を見ていない。
そうじゃない。
大丈夫にならなくていいんだ。
なぜならエンパスは運命的特性である。
すなわち、今生の目的に必要だから、
備わっている、一種の才能に過ぎない。
私はそう考えている。
大丈夫になる事が必要なんじゃない。
そういうところでは大丈夫ではなくなる自分の個性を抱きしめることだ。
私は、受容という表現では伝わらないニュアンスがあると考えている。
自分を受け入れる、もそうだ。
許す、もそうだ。
これだと、行動的表現である。
そうではなく、もっと受動的な表現が適切に思う。
そこで「現れた個性を抱きしめること」と表現するようにしている。
そこには多少の慈しみがあり、
自己肯定がある。
それはさておき、
その旨、説得することができた。
大丈夫にならなくていい。
もう何回説明しただろうか。
大丈夫にはなれない個性のまま生きていく。
その覚悟が決まるとよいのだが、
それが懸念点ではある。