『ゆき、春の手前で』

『ゆき、春の手前で』

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学び
ゆきが初めて教室の扉を開けたのは、小学4年の冬だった。
ランドセルの肩紐をずり落としながら、勢いよく駆け込んできた。

「ねーセンセ、これ見て!すごいやろ!」
「ねーセンセ!」
「ねーセンセってば!」

その声は、教室の空気を一瞬で明るくした。
ただし、勉強はまったく進まなかった。
プリントを開いても、すぐに別の話題へ飛んでいく。
鉛筆は持っているのに、心はどこか別の場所にあった。

それでも、センセは急かさなかった。
やらせようとしなかった。
ただ、ゆきの横に座り、ゆきの言葉を受け止め、
ゆきの世界が自然に広がるのを待った。

(この子の根源を育てよう)
そう思ったのは、あの頃だ。

3年が過ぎた。
ゆきは中学1年生になった。

相変わらずおしゃべりは多い。
話題は学校のこと、友だちのこと、部活のこと、
そしてときどき、どうでもいいようで大事なこと。

でも、変わったことがひとつある。

ゆきは、自分で勉強するようになった。

学校の宿題を大切にし、
提出物は必ず仕上げる。
わからないところは自分で調べ、
それでもだめなら静かに質問してくる。

冬休みの宿題は山のようにあった。
プリントの束を前にして、
「うわ、無理やん……」とつぶやいた日もあった。

それでも、ゆきはやりとげた。
提出日の朝、
「センセ、全部できた!」
そう言って見せた顔は、
子どもでも大人でもない、
その中間にある誇らしさで輝いていた。

春が近づいている。
ゆきはこの春、別の塾へ行く。

「もっと自分を試したいねん」
そう言ったゆきの声は、
少しだけ震えていたけれど、
その震えは不安ではなく、
未来へ向かうときの自然な揺れだった。

センセは静かにうなずいた。

「ええと思うよ。ゆきはもう、大丈夫や」

ゆきは笑った。
その笑顔は、あの日の「ねーセンセ!」の無邪気さと、
今のゆきの強さが混ざり合った、
新しい表情だった。

教室の扉が閉まる音がした。
ゆきの足音が階段を降りていく。

センセは机の上のプリントをそっと片づけながら思う。

(これでいいんだ)

子どもはいつか、自分の足で歩き出す。
その背中を見送ることが、
教育のいちばん静かで、いちばん深い喜びなのだ。

ゆきの未来は大丈夫。
あの子はもう、自分で世界を染めていける。

春は、すぐそこまで来ている。

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