世相

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《 自由 》は秩序を損なわない。
《 自由 》は、魔法のように秩序を形成する力を内包していると思っている。

「おや?」と思われたあなた。
以下を軽くお読みいただければ幸いです。

<自由>とカッコつきで表記するとき、それは<私>が考える<自由>を意味します。<自由>とは<私>の言葉です。この<自由>という言葉はどこかを調べても載っていません。<私>の思考の中にあり、<私>の記述の中にあります。しかも現在進行形で発展途上の概念ですので、今からここに書くことも含めて、固定的な定義はできません。この点はご了解をお願いいたします。

ドイツの哲学者ハイデガーは「言葉は存在の家である」と言いました。たとえば、「馬」という言葉で私たちは馬を了解していますが、サラブレッドや道産子も含めて「馬」という言葉で表される存在は、ある一定の姿形をした動物です。「馬」という言葉と「牛」という言葉では、守られている存在が異なります。生まれて初めて馬を見る子どもは「馬」という言葉、概念を知らないので、その存在を「!」として認識します。子どもは経験を積み重ねることで「馬」という存在を認識できるようになります。そのときに「馬」という言葉と結びついて、「馬」という言葉の獲得と同時進行で、「馬」の存在が認識されます。

<私>には<自由>という言葉で守っている意味があります。これはもちろん自由に関することなのですが、「自己」とか「自己表現」とかにかかわる概念です。さらに、<私>が<新しい個人主義>と呼ぶ考え方とも切り離すことができない様態で結びついている概念です。

一方、《自由》と二重カッコつきで表現する場合、それは《あなた》《他者》が創造する《自由》です。<私>は《あなた》に自分の《自由》を独自に創造していってほしいと考えています。

<自由>というとき、それはただの<私>の自分勝手を意味しません。<私>が<自由>であるためには、<私>は他者から認識された上で、認めてもらわなければなりません。そうでなければ本当の<自由>は成立しない。《あなた》《他者》が尊重されなければ<私>は<私>ではいられないのです。<自由>《自由》は<寛容>を含まなければ実現できません。

京都龍安寺の石庭の入園チケットには以下のような文言が書かれています。
「極端なまでに象徴化されたこの石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられている。」

ところが、<私>はあくまで<私>であり、<私>であることをやめることができません。禅の教えのようには<私>は無になることができません。けれど、<私>は《あなた》《他者》に対しては<無>になるのです。<私>は《あなた》《他者》の前では、《自由》が創造されることができる<無>の空間を用意するのです。《あなた》《他者》の《自由》を尊重するのです。

そして<私>と《あなた》はそれぞれに個として交信をするのです。<私色>は<私色>なのですが、そこには<私>自身の自己実現の道としての<修行>があり、<私>は《あなた色》を汚さないようにします。<私>は自分が<私色>でいられることがうれしいのと同様に、《あなた》が《あなた色》であることがうれしいのです。それはまるで虹のように個々の色が調和する。こういう世界は素敵ではないでしょうか。これが<私>が<自由>という言葉で考え始めて、長い時間をかけて到達したところです。<私>はこれを<新しい個人主義>と呼びます。


昨今の世相を見ていると、新しい時代へ踏み込む勇気と、それから必然性を感じずにはいられません。

《探求》がキーワードです。
<私>はそう思います。


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