私たちの日々の生活において、当然のこととして見つめている現実も視点を変えれば、それは何かの犠牲による残酷な日常でもあるのではないかと私は思う。
この現代社会における日本において、宗教とは何ら関わりなく成立している共同幻想も実のところその根幹となる金融システムさえも宗教原論といえるだろう。その代替交換価値理論において、目に見えない力学的価値を見える化したのが経済学でいう金融論であって、それを支える人々の思いを具現化しあらゆる差異を繋げようと考えたのがそもそも金融の始まりである。
つまり、宗教原論を視覚化したそのものが金融ともいえるし、その社会学的力動と大衆のヒエラルキーを具現化したそのものが宗教であり金融でもある。
民俗学的な人柱としての遺棄排除の社会学的力動の説明をするまでもなく、歴史を俯瞰すれば何かによる勝利は何かによる敗者の基盤によって立つ現実が待ち構えている。
戦後70年を節目とする今、私たちは大きな分岐点に立っているといえよう。戦争が否であることは誰でも分かることであって、説明するまでもない。であるなら、その普遍的な基本テーゼに反する非常識を常識として人為的に殺戮する政治の現実は、やはり残酷な日常であって、ややもすると冷静な判断力や行動力の根幹をも危うくさせるそのものであろう。
私たちの目指す答えは、あらかじめ用意された答えを踏襲していくことではなく、既存のパラダイムをも破壊する思考力が求められる。ただ単に賛成や反対ということで私たちの課題が解決されるわけではない。ここに初めて宗教の存在理由が生まれるのであろう。
自己がよって立つこの今も誰かの犠牲により成立している。だからこそ、その闇が物語るケガレの思想に対して、どう向き合い人生を構築していくかが初めて問われると私は考える。自身の人生が豊かであればあるだけ、なお闇の世界も深い。その闇が物語るケガレの思想に対しても、私たちは、真摯に向き合うべきだと私は思う。
現代社会は、その闇が物語るケガレの思想に対して、不誠実だと私は考える。光り輝く人生を追求するならば、その背景にある闇が物語る声にも傾聴すべきであり、それが私たちの使命でもある。