母を看取る 一筋の涙

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 思い起こせば、私が子供の頃は(60年前)年寄りは老衰で亡くなる時、自宅で最期を迎えるのが当たり前の時代でした。私の祖母の時も「そろそろかもよ」という知らせが来て、子供や孫・親戚中が集まり、その最後をみんなで看送ったことを覚えています。
 それがいつのころからか老衰であっても、最後は病院に運び病院で亡くなること(最期を迎える場所は病院)が当り前になってしまいました。そして、たとえ老衰であっても点滴をつけながら、心臓が止まれば心臓マッサージまで行いながら最期を迎えるようになっていました。

 40年前私が看護師として働き始めたころの病院がまさにそういう時代の真っただ中だったようで、最後に何か延命につながる処置をすることが、医療者の役目だと信じていました。そこには本人の尊厳を守ることや家族が口を挟む余地はなかったように思います。1分でも1時間でも延命させることが1番大切でした。
 ある日の勤務中に80歳の女性が心停止をしました。循環器病棟では心停止を発見したら心臓マッサージをすぐに開始しなければなりません。私も決められた通り胸骨に手を当ててマッサージを始めると、老化でもろくなっている肋骨が折れる感覚が手の平いっぱいに伝わってきました。心電図を見ながらこれ以上やり続けても心停止状態に変化はないとわかっていても、やり続けなければならないやるせなさは忘れられません。
 そういった延命処置が体に与えるダメージは、本人が「痛い、苦しい」とも言えないまでも「死に顔」に現れているようで、切ない気持ちでいっぱいでした。そして何よりも病室に家族の姿はなく、独りであわただしくあの世へ旅立たねばならないことが、より一層つらく・悲しく感じるのでした。

 今から30年前、私は病室で母が息を引き取るまで、独りじっと傍に付いて見守っていました。長年糖尿病をわずらい、最後は脳血管障害で入院をしての最後の時でした。私が看護師ということもあり、医師からの説明の後、延命処置についての考えを聞かれました。私は苦しまなければ、点滴だけであとは何もしないでほしいと伝えました。私はそれまでの経験から、今が穏やかな状態であれば、何もしないことが一番幸せだとわかっていたからです。
 病室の傍らで母を看取りながら、人が死んでいくという過程をこれほどゆっくりと時間をかけて、こんなにも落ち着いた気持ちで看つめたのは、看護師になってから初めての経験だったように思います。今まさに「死を迎えようとする人」を何もせずただ見守るということの大切さを、はじめて知らされたような気持ちでした。
 だんだん呼吸が浅くなり目を閉じていた母が、突然目を開き、大きく息を吸って一声うなりました。私は何か起きたのかと母の顔をのぞき込むと、母はまた目を閉じて一筋の涙を流し、そのまま息を引き取りました。その死に顔はポッとしたような穏やかないつもの母の顔でした。

死の前に一筋の涙を流したことについて、これは何の涙だったのだろうと不思議なまま過ぎていましたが、その答えは2016年の日本死の臨床研究会で、「人はなぜ涙をするのか」という演題で方波見康雄先生の講演を聞きいたときに初めて解けたのでした。
涙に含まれるエンドロフィンという物質を通して、死の前に一筋の涙を流すことは、「たぶん最後の別れに感謝して、看取る周りも自分の気持ちも和らげながら死んでいく”看取りの涙”・”和らぎの涙”である」と涙の真実について話されました。
 穏やかに最期を迎える人の脳内は、脳内麻薬の一種であるエンドロフィンで満たされていると言われています。エンドロフィンは体に外部からの刺激が生まれると、それを和らげようとして分泌される物質です。死に際が穏やかであれば、身体に医療的な処置をしなくても痛みも苦痛も和らいだ状態なのです。 
年老いて老衰で亡くなる時、人間にはこんなにも素晴らしい力が最後まで与えられているのです。
 そして涙には、このエンドルフィンがたくさん含まれています。死の前に母が一筋の涙を流したことは、痛みや苦痛を感じない、幸せを感じるエンドルフィンが目からあふれ出た結果なのだと思っています。






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