― 願いごとに、少しだけ余白を ―
最近あった出来事でカスタマーハラスメントについて考え、まとめてみたのでこの場を借りて書かせていただきます。
私は代理参拝や占いなど「誰かの願いや悩みに寄り添う」サービスを出品しています。
ありがたいことに これまでたくさんの方とのご縁をいただいてきました。
もちろん 人が提供するサービスである以上、すべてが完璧に進むとは限りません。
認識の違いが生じることもあれば、提供する側に落ち度があり、謝罪や改善が必要になることもあります。
私自身も、自分に至らない点があればきちんと振り返り、今後のサービスに生かしていきたいと思っています。
正当な「苦情」は必要なもの
サービスを受けて納得できない時、意見を伝えることは当然の権利です。
間違いがあれば訂正を求める。
説明が足りなければ説明を求める。
そうした声があるからこそ、提供する側も自分では気づかなかった問題を知り、改善することができます。
私は「苦情=悪いもの」だとは思っていません。
むしろ、丁寧に伝えていただいた意見から学ぶことはたくさんあります。
けれど同時に、最近よく耳にするようになった言葉があります。
「カスタマーハラスメント」です。
「苦情」と「攻撃」は同じではない
自分が不快な思いをした。
期待していたものと違った。
提供する側に落ち度があった。
そうした事情があったとしても、相手にどこまで要求してもよいのかという問題は、また別なのではないでしょうか。
「自分は傷ついた」
「自分は正しい」
その気持ちが、相手に何を言っても 何を要求してもよい理由になるわけではありません。
サービスを提供する側も、一人の人間です。
できることもあれば、できないこともあります。
誠意をもって謝罪し、可能な対応を提示し、それでも対応できないことについては、その理由を説明する。
それでもなお、相手に際限のない対応を求め続けること。
問題の解決ではなく、相手を責めることそのものが目的になってしまうこと。
そこには、「正当な苦情」とは別の問題が生まれることもあるのではないかと思います。
願いごとにも「余白」があっていい
そしてこれは、神社での「願いごと」にも少し似ているように感じます。
願いごとをするとき
「絶対にこうなってほしい」
「絶対にこの形で叶ってほしい」
そう思うことは、とても自然なことです。
願いを具体的にすること自体も、私は悪いことだとは思いません。
けれど、その「絶対に」が強くなりすぎることで、逆に自分の人生や可能性の幅を狭めてしまうこともあるのではないでしょうか。
一つの人間関係。
一つの仕事。
一つの結果。
そこだけを「正解」と決めてしまえば、本当はその先にもっと自分に合ったご縁や、思いもしなかった道が現れていても、気づけなくなることがあります。
願った通りの結果だけが「叶った」なのか
神社へ願いを託したあと、物事が自分の想像とはまったく違う方向へ動くこともあるでしょう。
その瞬間には
「こんな結果を望んでいたわけではない」
と思うかもしれません。
けれど、少し時間が経って振り返った時
「あの時は嫌だったけれど、結果的にはこちらで良かった」
と思えることもあります。
私は、神様への祈願とは、未来の出来事を細部まで指定する「注文」ではないと考えています。
願いをお伝えすることはできても、その先にどのようなご縁が生まれ、どのような道へ続いていくのかまで、人が完全に決められるものではないのかもしれません。
だからこそ私は、願いを具体的にしながらも、最後にはほんの少しだけ「余白」を残しておくことも大切なのではないかと思っています。
願うことと、支配すること
願うことと、結果を支配しようとすること。
この二つは、似ているようで少し違います。
人にも。
神様にも。
未来にも。
自分の思い通りにならない部分は、どうしても存在します。
だからこそ、願いを託したあとは
「ここから先には、自分がまだ知らない可能性もあるのかもしれない」
と、少しだけ手を緩めてみる。
その余白から、思いもしなかった新しい道が生まれることもあるのではないでしょうか。
正当な苦情を伝えることも大切。
自分の願いを大切にすることも大切。
そして同じくらい、相手にも未来にも、自分の思い通りにはならない部分があることを忘れない。
私自身も、サービスを提供する側として、これからも間違いがあれば振り返り、必要なことは改善していきたいと思っています。
そのうえで、自分自身を守るための境界線も大切にしていきたいと思います。
願いは託すもの。
未来を縛るものではない。
そのくらいの余白があった方が、人生は案外、想像していたより広い場所へ連れて行ってくれるのかもしれません。