これは中国・戦国時代の有名な弁舌家、蘇秦(そしん)の言葉です。舌先三寸で天下を動かした人物にふさわしく、物事の見方を変えることの重要性を説いています。同様に「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(『淮南子』、「人間」は「にんげん」ではなくて「じんかん」、「この世」という意味です)という言葉もあります。「塞」というのは外敵に備えた砦のことで、その近くに住む老人の飼っている馬が逃げてしまったところ、人々は気の毒がりましたが、老人は平気でした。やがて、逃げた馬が立派な馬を連れて戻って来たのですが、老人はこれを喜びませんでした。やがて、息子がこの馬に乗っていて落馬し、足を折りますが、老人は悲しみませんでした。しばらくして、外敵を防ぐために徴兵が始まりますが、息子は足を折っているため、免除されるのです。まさに「何が幸いするか分からない」といったところですが、「禍福はあざなえる縄のごとし」と言われるごとく、物事には必ず両面があることを教えてくれます。「四書五経」の中枢たる『易経』でも「亢竜(こうりょう)悔いあり」と言い、登りつめると後は下るしかなく、「吉の極みは凶の始まり」と教えています(当然、逆もあるわけです)。
よくびん半分になったワイン(別にお酒でもジュースでも何でもかまいませんが)を見て、「まだ半分もある」と言って喜ぶか、「もう半分しかない」と言って悲しむかで、楽観主義と悲観主義、ポジティブかネガティブかが分かれると言われますが、「現象」そのものは全く同じなのに、それを捉える「心の動き」が全く正反対であることに注意しなければなりません。例えば、人が亡くなることは不幸のきわみですが、葬儀屋はまさにそのことによって生きています。また、人の死が与える衝撃が精神的成長をもたらした人もいるでしょう。どんな不幸の状況の中にも必ずプラス面があるのであり、「不幸中の幸い」とは本来座して待つものではなく、積極的に見つけ出していくものだということです。ここで気をつけなければならないことは、物事のプラス面を見つけることは自然に出来ることではなく、意識的訓練が必要だということです。大体、多くの人はいろいろなつらい経験、体験、局面に遭遇していく中で、「まだ半分もある」人間から「もう半分しかない」人間へと変わっていくのものです(そもそも子供は楽観的で、悲観主義にこりかたまった子供はいません。実は悲観主義は経験のなさるわざなのです)。したがって、楽観主義的積極思考は向かい風に向かってヨットを進ませる技術のようなもので、身につけないとただ風下に流されていくだけですが、身につけるとどういう状況でもどうにでもなると思えるようになっていくのです。