あなたは知っていますか?「愛」が何なのか。

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愛とはなんぞや。

普通は直視したがらない、切り込もうと思わない分野だとも思います。しかし、そうして軽視し続けることが、悲しい結果を多数生んでいるのもまたこの世の澱。

きちんと学び、知っていくことが、対人関係ひいては家庭内の問題や、自分自身の内面の傷などの"解"になる。そう信んじています。

誰かを叱るのも「愛」がなければできない行為ですが、「叱る」と「怒る」を混同してしまっているのは、やる側にもやられる側にもよくあることですね。

それは親子間だけでなく友人との間にもあり得るもので、指摘注意や叱ることをしてくれる友人というのは、とても貴重な存在です。

家族でも何でもないのに、自分の時間や様々なリソースを割いて、その人のためにならないことを軌道修正してくれているのですから。

指摘や注意をする、改善できるように促す。相手の未来や幸福を前提に置かなければ、そしてそれだけの熱意がなければ、まずやろうと思わないものでもあると思います。

大抵の人は面倒くささを覚え、回避したがるためです。

それに応えるのもまた「愛」がなければできないことですが、前提として"相手を信じる"ことが求められます。

厳しさ(現実視)もまた「愛」だ、と。若い人(内面が成熟されていない人)であればあるほど、その部分に気づきにくくもあります。ですが彼らがそれに気付くのは、だいぶあとになってからというのも、当たり前のように存在するパターンですね。


「愛」とは独りよがりであってはならず、また受け取る側がそれを「愛である」と認識できなければ、意味がないものにもなります。

自分が愛だと思っていても、相手に伝わらなければそれは自己愛や自己顕示欲、承認欲求という、相手のためにはならないものになってしまうのです。

家の中でそういうものを与えられず学ぶ機会も無かった。そうなると、大人になってからの他者との交流にも大きな弊害が出てくるようにもなります。

人からの愛を愛だと認識できず受け取れない、場合によっては警戒心や猜疑心などから愛をくれようとしてくれる相手に対して攻撃的になってしまう、あるいは怯えてしまう。

親側がそういう正しさを持っていなかったなら、その子どもは当然歪んで育ち、強い生きづらさの中で自己否定と他者否定を続けるようになってしまう。そのようなものは、健全でも何でもないのですが、親側がそれを認めようとしないケースが非常に多いですね。


「愛」が人を"正しく"育み、「愛」が人の傷を癒し、「愛」が死に行く人を包み次へとつなげる。

綺麗事のように聞こえても、それはきっと色眼鏡、バイアス(偏見・先入観等)です。そう聞こえてしまうのは、生きてきた環境や取り入れてきた話、知識などで構築された価値観故なのでしょう。

愛というものをきちんと知らない人が多すぎる、日常的に意識なんてしたことがないと、そんな人が多すぎる。それが「この世の大きな問題」の一部だと、考えています。

現代日本人には常日頃から"余裕"がありません。極端な子育てをした親や、子育ての仕方がわからない親もかなり存在します。働けていれば存在する価値がある、そういった"古い価値観の時代"の遺したもの。そうしていって連鎖した結果「生きづらさ」を抱えた人間が、多く生まれるようになるのです。

ネグレクトや、健全に育つことができなかった問題を抱えた子どもなどの裏側には、それらが影を落としていることが往々にしてあります。

アップデートされていない、価値観が古い人ほど、精神疾患やメンタルヘルス周辺に否定的でもあるはずです。



親から子どもへの愛は「無償(無条件)」でなければならないですが、「愛」は有限であり、人間は自分自身を優先して大切にしていかないとその他の誰かを支えなくもなります。

何事もバランス、なのだと思います。自分を追いつめてまで誰かに愛を渡そうとするものでもありませんね。

親が子どもに関心を持たない、衣食住を満足に与えているから親の自分には何の非もなく悪くもない。そう思い込んでいて「子どもが勝手に悪さをしている、自分のせいではない」とする親の立場の人間も数知れず。

そのような「親」は、子どもがその親のせいで歪んで育ち、愛情に飢えて非行に及んでも、反省も内省もしようとも思いません。"物質的には与えていて不足がなかった"からです。

しかし「愛」は存在しなかった。その部分に、親である人間が気づかない。

愛が足りていない環境、というのは、想像以上にマイナスな影響ばかりを残します。親が子どもに無関心(放任)、あるいは関心があり過ぎ(過干渉)ても、子どもにとっては良い影響を与えない。なぜなら、それは親の独善的なものになるからですね。

愛着障害やうつ病、境界性同一性障害など。親からの愛情が足りない中で育つと、後々それらの重い精神疾患と付き合わざるを得なくなることもあります。ですが、そういう環境を作った側の人間は、それらを省みることもしません。

基本的に、自分がそう言う存在であるという気づきも、親も子どもも至ることがありません。他所の他人から言われなければ、気づきようがない「洗脳」だからです。





「愛」とは様々な形やプロセスがあり、愛を知っている人とそうでない人も、それを受け取れてこれた人と受け取れなかった人も、また様々。非常に幅広く、複雑で、深い分野です。

確実にわかることは「愛が無ければ人は、ひどい栄養失調に似た状態に陥り、死に至る場合がある」ということですね。
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