「できない理由を並べ立てて動こうとしない人」からの脱出方法。
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確かに事由や理由があって「できない」「できなかった」というのはあるんだと思います。が、
"他に方法がある"のにもかかわらず、だからできないということを主張する、そういう人がわりと目立つんですよね。
つい先日の実例で言うと『洗い物中に思いつくからスマホを触れないのでメモが取れない』に対して自分は『片手だけ拭いてサッとスマホいじればいいだろ』と返しました。
できない理由探しばかりをして、できる理由探しをしない人がよくわかりません。そんなの、ちょっと考え方を変えたり視野を広げてみたり、視点を変えたりひねってみたりすれば簡単に解決することだからです。
考えようともしていない、どうすれば可能になるかの模索もしないで「できない」というのは、"動かなくていい"という口実を盾にする怠慢ではないか?「自分は変わりたくないけど相手に融通効かせたい」という虫の良さでは?
そう思うので、そう言う意味での甘やかしはしませんし、そういうことを繰り返していると自分の頭で考えるちからが弱くなる、自分で自分の可能性を否定している(殺している)ので今より成長することが無くなる、といった弊害も出てきます。
シンプルに、ただただ自己保身がしたいだけなのではなかろうか、と。
お金が無くて行えないとか、心身がしんどくてやりたくないとか、そういう「どうしようもないもの」などはさすがに自分も上記のようには思いませんし、それらはもうできない、できなかったになっても仕方ないことです。
そうではなく、探そうとしない、やりようはあるのにそれを考えたり、見ようとしないであるとか。明らかに「目を背けているだけだろ」と感じられるもののことですね。
それは場合によっては「言い訳を並べ立てている」ととられ、余計にお叱りを受けたり相手を怒らせたりしてしまうものですね。
もしかしたら、そうやってできない理由探しに真っ先に意識が行ってしまうタイプの人は、過去に否定された経験が多かったのかもしれず。自分なんかやってもダメだしな、というような自己否定癖、自己肯定感の低さのことですね。
自分はできるはず!という意識が前提に存在していれば、できない可能性を考える暇なんて生じないはずですもんね?
あるいは、そういう"自分から進んで変化をしていこうとすることが怖い"。新しいことや失敗したことへの再チャレンジなどへの恐怖や不安があってしり込みしてしまうところがある、などです。
当ブログでは「自分の幸せは口を開けて待っているだけで手に入るわけがない、自分で掴みに行け」「天は自らを助くるものを助く」「変化しないことは安定であるがそれはすなわち"停滞(腐っていくだけ)"である」と何度か述べてきています。
慣れ親しんだやり方や環境は誰だって手放したくありませんよね。しかし、"本当にそれでよいのでしょうか"。
なんでできないの?という掘り下げの言葉をできない自分を責められていると感じたり、なんで?というなんてことない状況把握のための問いかけを詰問だと感じたり。
必要以上に相手や周りの顔色(機嫌)を気にしてそれを最優先するところがある、自分のことを意識するよりも他人を気にする、自己犠牲的なやり方でその場しのぎをしてきたからそういった癖がついてしまっている等。
おそらくは、そのようにして自尊心を傷つけられ、愛着を正しく捉えることが難しく、自己肯定感もダダ下がりな、簡単に言うと「暗い性格になってしまった(ネガティブ思考が止まらない)」ゆえ、なんだと思います。
まったく関係の無いはずの相手なのに、威圧感を感じたり信じることができなかったり怖かったりして「言いたいことが言えない」「自分の気持ちを押し殺してしまう」「言う通りにしないとひどいことされるんじゃないか」と自動思考が出てしまう"フィルター"の正体に関する記事も執筆中です。
要は、できない理由探しに意識が行ってしまうのってネガティブな思考癖がついてしまっているからなんです。
可能性や未来への展望を信じることができている人なら、どんどん挑戦していけて、できないことなんかに興味は無いはずです。
自分はできる、またはできるようにしてやるんだ!となりますよね?
できないんだったら、どんなに小さなことでもいいからやれるものからやっていくこと。やれるものがどこにあるかわからないなら、工夫を凝らすこと。
「見た目」や「映え」「プライド」なんかこの場合まったく必要ありませんし、なんならそれらは成長を阻害するまであるものです。虚栄心や虚飾、虚勢、などといったまやかし(自分の内面で執着していて頑なに別の要素を受け入れようとしないもの)のことですね。
それらの正体は、ひとえに「臆病さ(恐怖や不安)」だったりしますし、何故そうなっているのかと言えば、過去経験の傷や心のダメージがほったらかしにされているから(自分の中に閉じこもって変化したくなくなる)です。
この話の重要なところは「やりようはあるのにできないとしてそれ以上意識しようとしない」部分であり、どうしようもない致し方ないものであればそれは言い訳にはならない(受理されるべきである)という点です。
ネガティブフィルターが強い人(心の傷が言えていない人、内面が歪んでしまっている人)は、ここの区別がついていないんだと思います。
シングルタスクであったりして人の話を覚えていられない、物忘れが激しいなどするならメモや付箋をこれでもかと利用すべきなのに、ダサいとか見た目が汚いだとかなんだかんだ言いたくなる人、いるでしょう?
生活を効率化させていきたいなら、見た目や不要なプライドはとっとと手放すことです、そして効率化のための内容構築に手を抜かないことです。
人間最初から何でもやれる人なんているわけがありません。そして、努力なくして何かが成し遂げられることもありません。さらには、"きれいなまま"で「掴み取る」ことなんかあり得ません。
その手や姿は、ドロドロに土だらけでいて、傷だらけのはずです。