否定されたのは、本当に私だったのか

否定されたのは、本当に私だったのか

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コラム
例えば、
誰かに料理を作ったとします。

時間をかけて、
味を考えて、
盛り付けにも少しこだわった。

そして相手が、
「少し味が濃いね」
と言った。

それだけです。
たった、それだけのこと

怒られたわけでもない。
人格を否定されたわけでもない。
ただ料理の感想を言われただけ。

それなのに、
なぜか胸の奥が
チクリと痛むことがあります。

もちろん、
「そうか、次は少し薄味にしてみよう」
と受け取る人もいます。

でも、
そう受け取れない時もあります。
ただの料理の感想なのに、
なぜか自分自身が
否定されたような気持ちになる。
私は昔から、
この感覚が少し不思議でした。

料理だけではありません。
仕事で提出した企画書や報告書の文章。
撮影した写真。
描いたイラスト。
ハンドメイド作品。
それらに対する「感想」を
言われただけなのに、
まるで自分自身が評価されたよう
気持ちになることがあります。

本来であれば、
企画書と私。
文章と私。
写真と私。
それぞれ、別のもののはずです。
もし写真が良くなかったとしても、
それは写真の話です。
私という人間そのものの話ではありません。
けれど、
私たちは案外、
「そんなダメな写真を撮る私」のように、
写真と自分をセットで考えてしまいます。

なぜなのでしょう。
もしかすると、
私たちは評価そのものよりも、
その評価が持つ「意味」を
受け取っているのかもしれません。

「味が濃い」
という言葉を聞いた瞬間、
頭の中では別の物語が始まる。
料理が下手だと思われた。
期待に応えられなかった。
喜ばせられなかった。
場合によっては、
私はダメだ。
こんな料理を作る私には価値がない。
そこまで行ってしまうこともある。
もちろん、
相手はそんなことを言っていません。
ただ、
いつの間にか話がすり替わった上に、
どんどん大きくなっていくのです。

この現象が特別な性格の人だけに
起きるわけではない、
というのも不思議なことです。
誰にでも、
程度の差こそあれ起きている。
SNSで反応が少ないと落ち込む。
メールの返信文が短いと不安になる。
上司の一言が何日も頭から離れない。
実際に起きた出来事と、
自分が受け取った意味。

その二つは必ずしも同じではありません。
けれど、
人間はどうやら、
実際に起きた出来事だけを見て
生きることが苦手なようです。

私たちは、
目の前で起きた事実に対して、
意味を持たせようとします。
そして、
その作りだした意味を、
いつの間にか事実のように感じてしまい、
「そうに違いない」と確信に変わることもある。
これは間違いというより、
きっと人間に備わっている仕組み
なのでしょう。
もし人間が事実だけを
見る生き物だったなら、
もっと生きやすかったかもしれません。
でも実際には、
そうなっていません。

私たちは、
起きた出来事が自分にとって何を意味するのか、を
感じながら生きたいのかもしれません。

そもそも私たちは何を
「私」と呼んでいるのだろう、
ということです。
作った料理も、私。 
書いた文章も、私。 
仕事の成果も、私。
成功も、私。
気づけば、
自分の周りにあるたくさんのものが、
「私の一部」になっています。
だからこそ、
それらが低く評価されると、
自分自身も揺れてしまう。
料理の感想なのに傷つく。
写真の感想なのに落ち込む。
文章の指摘なのに腹が立つ。
よくよく考えてみれば、
少し不思議な話です。

だから私は、
料理の感想で傷ついてしまう人を見ても、
弱いとは思いません。
考えすぎだとも思いません。
むしろ、
人間という存在は、
思っている以上に、
自分と世界の境界線が
曖昧なのかもしれないな、と。
出来事を見ているようでいて、
それを意味付けした「解釈」にこだわっている。
評価を受け取っているようでいて、
その評価と自分を結び付けたものを受け取っている。
私たちは、
起きたことだけを生きているのではなく、
起きたことに見出した意味と
一緒に生きているようです。
だから時々、
傷ついた理由をたどっていくと、
相手の言葉ではなく、
その言葉の奥で
自分が受け取った「何か」に出会う。

それは、いったい何だったのでしょう?

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