親ガチャ・毒親について聞いたことはありますか?
少し前は、SNSやTVの中でも出てくるワードでしたが、最近はその話題も落ち着いてきたように思います。
その中で、自尊心というワードもよく聞いたのではないでしょうか?
文字を見てなんとなく、何を指しているのかは予想がつくと思います。
だけど、SNSを見ていると
“自尊心が低いからうんたら言っている人がいるけれど、
逆に自尊心が高すぎてもねぇ…。”
とおっしゃっている人もいて、
そのような考えもあるんだな…。と思いながら読み流していた。
僕自身、親がアタリだとは思わないけれど、社会的に最低の親だったかというと、そんなこともない。
親なりに子育てに奮闘していただろうし、持てる愛情は注いだだろうな、
と大人になった今は思うことができる。
しかし、自尊心はかなり低く育ったと認識しているし、子どもの頃から何に対しても自信がない、そんな子どもだった。
親(特に母親)のことは、小学生の中学年〜高学年にかけては既に嫌いだったし、今となっては母親だと思うことをやめ、
最低限関わりを持たなければいけない人程度の気持ちで接している。
育ててくれた親に対して…
と批判されるかもしれないが、自分の心を保つためにはそれが必要なことだった。
なぜ、そんな人間に育ったのか、なぜ自尊心が低いのか、
一般的に見たら、
そんなのはあなたの性格でしょとか特性でしょうとか、原因は僕自身にあって、ただのわがままに育った大人のように見えるかもしれないけれど、
もし同じように悩んでいる方がいたら、こんな人がいるということを、
もし子育てをしていたら、自身の行動が子どもの自尊心を傷つけていないだろうかということを、
考えるきっかけになればと思う。
僕は高校卒業後、保育士の専門学校へ進学した。
表上は “子どもが好きだから” もちろん嘘ではないのだけれど、
心の中では “悲しい思いをして育つ子どもが少なくなって欲しい”という想いが強かった。
幼少期から自分の気持ちを受け入れてもらえる状況よりも、
親の気分やタイミングで物事が進んでいくことが多かった。
思い通りにならなければ、母親は靴べらを持ってきて叩く、
弟妹がいたので兄弟喧嘩をすれば叩く。
叩けない状況であれば、
「もう〇〇させない」「〇〇したいのであれば△△しなさい」
というふうに、従わせるような発言をすることが多かった。
と言っても、同世代から上の年齢の人たちであれば、まだ虐待なんて騒がれる前の時代で、正直同じような経験をしている人は沢山いると思う。
なんなら、しつけとして当たり前くらいの感覚すらあったかもしれない。
だけど、当時5歳くらいの僕の頭に焼きついて離れない言葉がある。
「お母さんがこれ(靴べら)で叩く理由分かる?
手で叩いたら、お母さんの手が痛いからだよ」
今の僕がその場にいたら反論できるかもしれないけれど、
5歳の僕は大きな違和感を感じながらも何も言えずにただ泣くしかなかった。
体を叩かれた痛みなんて大人になる頃には覚えていないし、なんなら3日もすれば忘れているけれど、
心の痛みはガラスに付いた傷のように、いつになっても消えることはないと
僕の実体験を持ってお伝えすることができる。
こんな言葉を子どもに投げるような母親だから、褒めることよりも
アドバイスという名の否定をすることが多かった。
これは20歳頃の話だが、
「車の運転も慣れてきて安心して乗っていられる」と母親に言われたあと、
バック駐車中に後ろの植木を囲んでいる枠に気づかずぶつけてしまったことがあり、その後「あなたは褒めたら失敗するから、私は褒めない」と宣言されたことがあった。
事故を起こした手前、反論できなかったのだが、
それは子どもの時から「〇〇できたね!頑張ったね」よりも
「どうして〇〇できないの!」とか「こうしたら、もっと良くなるね!」
といった、マイナス面(課題)を強調されることのほうが多かったから、その宣言は今更であるし、逆にそのような考えで今まで養われてきたのか、と認識するきっかけになった。
だから僕は、自分自身に価値を見出せることはなかったし、青年になり周囲から褒められたりすることがあっても
「そんなことはあり得ない、過大評価しすぎなんだ、僕にはそんな価値なんてない」
そんな言葉が頭の中を反響していた。
価値のない人間だから、いつだって消えたい、この世に存在していても、していなくても社会はなにも変わらないし、周囲の人たちだって何も変わらずに日常を過ぎていくだけ。
いつ消えようか…。
ずっとそんなことが頭の中にあって、
18歳になったら、20歳になったら、が誕生日を迎える度に頭をよぎる。
なんとなく消えることができずに時間だけが過ぎていった。
(実際に自●未遂をしたことは、また別の機会に書こうと思う)
だけど、そんな僕でも自尊心を高めていく方法はあった、その方法はとても単純だった。
自分自身の存在を傷つける存在と、物理的に距離を置くことだった。
僕は地元で一度保育士として就職したが、自分自身よりも2倍3倍生きた人生の先輩から「先生」と呼ばれることにすごくプレッシャーを感じ、経験も見識も足りない、もっと広い世界を見たいという思いもあり東京に進出した。
その裏には、親と距離を取りたい・離れたい・自分自身のプライベートにまで侵食してくる存在と縁を切りたいという思いも強かった。
当然、反対されたが、これまでにできた人脈を使って、居候先も決め逃げ出すように家を飛び出した。
状況後、最初は親からの連絡にも応えていたが、それだと、結局自身を害する親の自分勝手な感情が入ってくるため、徐々に連絡を取らなくなったし、一時期はブロックもした。
たったそれだけのことで、自分自身の価値は上がった。
仕事を頑張れば、それに対する評価がつく。
プライベートでの友達や恋人との関わりも明確で、自分自身を卑下してくるような人とは無理に付き合わずに、自分自身を相手を認め合える人と過ごすことで、ちゃんと自分の意見を認めてもらえる。
そこで、やっと一人の人間としての存在を得られたような気がした。
ちゃんと認められたことで、自分自身の気持ちにゆとりができたし、嫌いな親と向き合ってみてもいいか、年に一回、数日なら帰省してもいいか、という気持ちの余裕が生まれた。
自尊心が低いことは、自分自身の価値や尊厳が低いということだと思っている。単純に『自尊心』と検索すると「プライド」という言葉が出てくるが、
僕はそうは思わない。
自分自身が生まれてきたことに価値があると思えることは、プライドが高いことではなく、ちゃんと愛されて育ったかどうかだと思う。
愛されて育つことは、自分自身を認めてもらえたかどうか、だと思っている。
それは、親の都合で与えた愛情ではなくて、子どもが求めている種類の愛情をちゃんと与えられるか、ということ。
赤ちゃんが泣いている時に、おしめが濡れているのに、何回もミルクを与えたところで、赤ちゃんが満たされることはない。
親がケーキが好きで沢山買って与えたとしても、子どもが甘いものが苦手であれば、それは嬉しい経験ではなく嫌な思いでとして残る。
育てるというのは、種を植えて作物を育てるように、相手が成長しやすいように環境を整えていくことだと思う。
アサガオを育てる時には支柱が必要だし、大根を育てるのであれば支柱は必要ない。雨が降っていれば、水をやる必要はないし、土が乾いていれば必要な量の水を与える必要がある。
育てる側の気分で水を沢山あげれば、根腐れするし、水をあげなければ枯れてしまう。
ちゃんと、相手の子どもの状態を見て、
何をしてあげるべきなのか、何をしてはいけないのかを
見極めて接してあげられることが、大切なのだと思う。
ただ、必要な衣食住を提供して、体調を崩した時に医療を受けさせて、というだけでも毎日大変なことだと思う。だけど、それだけでは養っているだけだと思っている。
育てることは簡単なことではないけれど、
今、子どもに費やした時間が将来 花を咲かせるのか、
それとも、手元から離れていき枯れていくのか、
同じだけの時間をかけるのであれば、
少しだけ意識を変えて、少しだけ丁寧に関わって、
子どもが生きる価値を持って社会へ出ていくことができるように、
親として、人生の先輩としてサポートしてあげられたら、
もっと幸せも笑顔も連鎖していくんじゃないかな、と思う。
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