最近ふと思い出したことがある
若い頃、初めてのデートの前や、彼を部屋に呼ぶ日、そして、ディスコに繰り出す日...本当に真剣に悩んで服を選んでいた。予算を切り詰めてでも、一枚のワンピースやアクセサリーを買いに走った。あれは「異性によく見られたい」という、ある種邪な気持ちからくる衝動買いだったと思う。
翻って今はどうなのか。
世の中は恋愛受難時代と言われる。パートナーがいないどころか、生涯未婚率も上がり続けている。「異性にモテたい」という根本的な動機そのものが、社会から薄れてきているように見える。
けれど、異性によく見られたいという欲求は、本来もっと根源的で、太古の昔からDNAに組み込まれているはずのものだ。進化心理学的に言えば、身なりを整えて魅力をアピールする行動は、生存や繁殖に直結する本能的な戦略だったはずで、そう簡単に消えるものではない。それがこれほど弱くなっているように見えるとしたら....服が売れない理由は、単に欲しい服がない、からでも、季節のせいでもなく、もっと構造的な変化が起きているからではないか。そんな仮説を、今日は数字を追いながら検証してみたい。ちなみに今回は、チャッ ピー相手に経済データのリサーチを手伝ってもらいながら、自分自身の実感とすり合わせる形でまとめてみた。
服は本当に売れなくなったのか?
経済産業省の資料によれば、日本の衣料品市場規模は1990年代初頭に約15.3兆円あった。それが2022年には約8.7兆円まで縮小している。30年間で4割以上の縮小だ。家計の中で「被服及び履物」が占める割合も、長期的にじわじわと下がり続けている。
ところが、ここが面白いところだ。市場規模が縮小する一方で、衣料品の国内供給量はむしろ増えている。1990年に約20億点だったものが、2019年には約40億点と、ほぼ倍になっている。
つまり、日本人は服を買わなくなったというのは、正確な表現ではない。実際には、服にお金を払わなくなったというほうが実態に近い。ファストファッションの普及で単価が下がり、少ないお金でも一定量の服が手に入るようになったからだ。
昔は「良い服を、長く着る」。今は「大量の服が、安く供給される」。市場は縮んでいるのに、モノとしての服は減っていない。この矛盾こそが、今回の出発点になる。
すでに財布の中で、服は小さな存在... 。
2024年の全国家計構造調査を見ると、単身世帯の消費支出に占める「被服及び履物」の割合は、男性で1~2%台、女性でも3~4%台にすぎない。たとえば40歳未満の男性では、被服・履物が2.5%なのに対し、交通・通信は17.4%、教養娯楽は12.4%。40歳未満の女性でも、被服・履物は4.1%にとどまり、交通・通信12.1%、教養娯楽10.6%のほうが大きい。
もはやファッションは、家計消費の中心ではなくなっているのだ。昔は「今月は服を我慢して、来月は思い切り買おう」というやりくりの対象だった被服費が、今では家計の中でほとんど誤差のような小さな枠に押し込められている。
だからと言って、服に回らなくなったお金は、単純にスマホ代に移動した、という一対一の話ではない。この30年で、服と競合する新しい支出が、財布の中にいくつも増えたのだと思う。
まず通信・デジタル。携帯電話、インターネット、スマートフォン端末、動画・音楽配信、各種サブスクリプション...1990年代にはほとんど存在しなかった支出が、今や生活インフラとして固定費化している。服を買わなくても生きていけるが、スマホなしで生活するのは難しい。
医療・健康。高齢化も相まって、保健医療への支出は年々存在感を増している。そして体験・娯楽・サービス。旅行、ライブ、外食、美容、推し活...。
モノを所有する以外の消費先が、この30年で一気に広がった。服はもはや、他の服とだけ競争しているのではない。旅行やライブ、スマホ代とも、限られた可処分所得を奪い合っている。さらに見逃せないのが、食費や光熱費、住居費といった生活必需費の上昇だ。物価は上がる一方で、賃金の伸びは弱く、実質的な購買力は圧迫され続けている。家賃も食費も電気代も通信費も、待ったなしで払わなければならない。けれど服だけは、去年のものでいいと、先送りができてしまう。
自分に置き換えてみると、この話は早い。
ファッション業界に長くいたこともあり、20〜30代の頃は、服飾費に月5万、多い月は10万近く使っていた。今の服飾費は、当時の何分の一だろう。
では、そのお金は今どこに消えたのか。一番は、食費だ。物価が上がった分もあるが、それだけではない。ここ数年、有機野菜や無添加のものを選ぶようになり、市場価格より割高なものを買っている。体は食べたものでできている、という当たり前のことに、年齢を重ねるほど実感が伴うようになった。ここだけは、譲れない。
次に大きいのが、旅に出ること。そして学ぶこと(放送大学の学費もそのひとつだ)。ジムに通うことにも、以前より迷わずお金を使うようになった。
服を我慢しているという感覚はない。ただ、限られたお金の使い先の優先順位が、この30年で静かに入れ替わっただけなのだ。これは、多くの読者の皆さんも実感することでないだろうか。
「服を買わなくなった」という現象の裏には、「買わない」のではなく「服にまでお金が回らない」という、経済的な事情が確かに存在している。
だから、「欲しい服がない」だけでは説明できないのだ。
ファッション業界は往々にして、「ヒット商品がない」「トレンドが弱い」「若者のファッション離れ」と、業界内部の問題として語りがちだ。けれど30年分の家計の数字を追うと、それだけでは説明がつかない。
ファッションの本当のライバルは、ユニクロでもZARAでもSHEINでもない。スマートフォンかもしれないし、旅行かもしれない、美容かもしれない、電気代かもしれない。
そして、そもそも、服はもう十分すぎるほど手元にあるのだ。
30年間の変化を一言でいうと
1980〜90年代は、お金がある→自分をよく見せたい→服を買う、というシンプルな流れがあった。
2020年代は、自由に使えるお金が最初から限られていて、生活費・通信費・スマホ代・旅行・美容・外食・ライブ・推し活などに配分したあと、残ったわずかな枠の中から服を選ぶ、という順番に変わっている。しかも服自体が安くなっているから、少ない予算でも、モノとしての服は手に入ってしまう。
単価が下がった分、同じ予算でも手に入る服の点数はむしろ増えている。だから正確に言うなら、「服を所有しなくなった」のではなく、「服に大きなお金を払わなくなった」のだ。
前編のまとめ
この30年で起きていたのは、単なる「ファッション離れ」という個人の好みの問題ではなく、服にお金が流れにくい社会構造への変化だったのではないか。だとすれば、魅力的な服さえ作れば、また売れるようになるというのは、少し楽観的すぎる話なのかもしれない。アパレル企業一社の努力では抗いにくい、経済・社会構造そのものの変化が背景にあるからだ。
ただ、ここでひとつ疑問が残る。
もし日本人の所得が今より大きく増え、自由に使えるお金が増えたら、私たちはまた1990年代のように服を買うようになるのだろうか。本当に、お金がないから服を買わないだけなのだろうか。
もっと根本的なところで、私たちは、服を買うお金だけでなく、服を欲しいと思う理由そのものを、少しずつ失いつつあるのではないか。冒頭で触れたモテたくて服を選んでいた、あの頃の感覚は、今どこへ行ったのか。
太古からのDNAが簡単に消えるとは思えない以上、その欲求はどこかで形を変えて生き延びているはずだ。もしかしたら、服ではない何か別のものに置き換わっているのかもしれない。
次回・後編では、お金の視点からいったん離れて、欲望の視点から、この問いを掘り下げていきたい。
モノを所有することよりも、体験やコンテンツにお金と時間を使うようになったこと。推し活のように、誰かを応援すること自体が自己表現になったこと。SNSの普及で、誰かひとりによく見られるより、不特定多数からどう見られるかが気になるようになったこと。職場のカジュアル化やリモートワークで、装う機会そのものが日常から減ったこと。そして恋愛・結婚のかたちが変わり、この人によく見られたいと思う相手が、以前より固定されなくなったこと。
これらはどれも、「異性によく見られたい」という古くからの動機が、消えたのではなく、姿を変えて別の場所へ流れていった痕跡なのかもしれない。それがどこへ流れ、なぜ「服」がその受け皿ではなくなったのかを、後編で見ていきたいと思う。