「安い服」の裏側で、誰かが払っているコストのこと。

「安い服」の裏側で、誰かが払っているコストのこと。

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美容・ファッション
クローゼットを開けるたびに、着ない服がある。そういう経験は、誰にでもあるだろう。私にもあった。バブル時代から積み上げてきたブランド品が、クローゼットの奥に眠っていた。何年も袖を通していないのに、手放せない。なんとなく、もったいない気がして。あるいは、いつかまた着るかもしれない、という根拠のない期待を持ちながら。

ある時、思い切って全部処分した。驚いたのは、その後だ。それらを処分して、何一つ、困ることがなかった。そして、後悔もなかった。

スッキリした、というより、軽くなった。長年背負っていたものを、やっと降ろせた感覚。それと同時に、ふと思った。これだけのものに投資してきたお金と時間は、いったい何だったのか、と。

手放せなかった理由、心理学が教えてくれること

行動経済学に「保有効果(Endowment Effect)」という概念がある。人は一度手に入れたものを、客観的な価値以上に高く評価する傾向がある、というのだ。手放すことへの抵抗感は、そのものへの純粋な愛着ではなく、「損をする感覚」への恐怖だったりする。つまり、クローゼットに眠るブランド品を手放せなかったのは、服が好きだからではなく、手放すことで「負けを認める」ような気がしていたからかもしれない。

処分してスッキリしたのは、当然の反応だ。

実は最初から必要なかったものを、手放して初めて気づいた...。心理学的には「認知的明確化」と呼べる状態だという。何一つ困らなかった、後悔もなかったという事実は、それをそのまま証明している。

バブル時代の消費行動は、モノへの欲求というより、「持っていること」へのアイデンティティの依存だったのだと、今なら思う。ブランドのロゴは、服ではなく、自分の社会的地位の証明として機能していた。それを手放した時の軽さは、モノを失った喪失感ではなく、不要なアイデンティティを脱いだ解放感だったのだ。

ひとつ、笑えない事実を付け加えておこう。バブル時代のブランド品は、バリエーションが驚くほど少なかった。ヴィトンのボストンバッグ、サンローランのウエッジサンダル、ティファニーのオープンハート...街を歩けば、同じものを持つ女性たちが溢れていた。もちろん、私もその一人だった。差別化の象徴であるはずのブランドが、最大の同調圧力だ。笑。

これを心理学的に見ると、「横並び志向」と「差別化欲求」が同時に働いていた状態だ。みんなが持っているから安心、でも持っていないと不安。個性の表現のつもりが、実態は集団への同化だった。SNSの「みんなが使っているフィルター」「バズっているコーデ」と、構造は何も変わっていない。

時代は変わり、対象は変わる。しかし人間の本質は、驚くほど変わらない。

だとすれば、ブランド依存も消えてはいない。むしろそれは、人間のDNAに刻まれた欲求なのかもしれない。「他者より優位に見られたい」「帰属集団を示したい」という社会的本能は、時代が変わっても消えない。変わるのは、その対象だ。服が売れなくなって久しいが、承認欲求の矛先はSNSへと静かにスライドしている。フォロワー数、いいねの数、バズった投稿、それらは現代版のブランドロゴだ。このことは繰り返し言い続けたいと思っている。なぜなら、構造を知ることだけが、踊らされない唯一の方法だから。

本来、良いものは消費されない。受け継がれるものだ。

古着店やリセールショップに足を運ぶたびに、驚く光景がある。ブランド品の、圧倒的な物量だ。日本人は、こんなにもブランド品持っていたのか..と。

欧米では、質の良いものは代々受け継がれる。祖母から母へ、母から娘へ。バッグひとつ、スカーフ一枚に、家族の時間が宿る。しかし日本では、ブランド品もまた「消費されるもの」として扱われてきた。買い替え、手放し、また買う。その繰り返しが、あの物量を生んでいるのだと思う。

私のことで恐縮だが、バブル時代のブランド品を一掃した中で、祖母から譲り受けたエルメスのスカーフだけは、手元に残した。手放せなかったのではない。手放す理由がなかったのだ。触れるたびに、今売られているものとは明らかに異なる手触りと質感がある。モノには、時間が宿る。その感覚を、祖母から教わった気がしている。

本来、良いものは消費されない。受け継がれるものだ。

この価値観の違いが、日本のサステナブル意識を周回遅れにしている根本にあると私は思っている。ただし、誤解しないでほしい。Z世代はサステナブルを当たり前の感覚として持っている。問題は、意識のアップデートができていない経営者世代...現場を知らないまま数字だけを見ている、あの「おじさんたち」だけなのかもしれない。

日本のアパレル業界は、なぜ「周回遅れ」なのか

サステナブルファッションという言葉が、日本でも聞かれるようになって久しい。しかし正直に言う。日本のアパレル業界は、この分野で明らかに周回遅れだ。ヨーロッパでは、ブランドが素材の産地から縫製工場の労働環境まで開示することが、当たり前になりつつある。フランスでは2023年、ファストファッションに対する規制法案が議会で審議された。消費者側も、「どこで、誰が、どんな環境で作ったか」を購買基準に含める動きが定着してきた。

翻って日本はどうか。「エコ素材を使いました」「リサイクルラインを作りました」という表面的なアピールは増えたが、サプライチェーン全体の透明性という意味では、まだ入り口に立っていない。

なぜ遅れているのか。理由はいくつかある。

ひとつは、消費者側の価格感度の高さだ。日本市場は「安くて良いもの」への期待値が異常に高い。その期待に応えようとした結果、コストを下げるためにどこかにしわ寄せが行く。多くの場合、それは生産現場の労働者だ。バングラデシュやカンボジアの縫製工場で、最低賃金以下で働く人たちのコストの上に、私たちの「お手頃価格」は成立している。

もうひとつは、業界構造の問題だ。大量生産・大量消費のビジネスモデルで成長してきた企業にとって、サステナブルへの転換はコスト増を意味する。それを価格に転嫁すれば売れなくなるかもしれない、という恐怖が、変化を遅らせる。

そして最大の問題は、「売れれば正義」という短期的な思考が、業界全体にまだ根強いことだ。

売る側と買う側の、埋まらない視座のズレ

売る側は在庫リスクを恐れ、トレンドサイクルを短くすることで売り切りを図る。買う側は安さと新しさを求め、シーズンごとに服を買い替える。この共犯関係が、ファストファッションの巨大な市場を支えてきた。

しかし、そのコストは誰が払っているか。

環境負荷という意味では、ファッション産業は世界の水質汚染の約20%に関与していると言われる。廃棄される衣料品の量は年間約9200万トン。1秒ごとにトラック1台分の服が廃棄されている計算だ。売る側は「需要があるから作る」と言い、買う側は「安いから買う」と言う。

しかしその連鎖の末端で、環境と、どこかの誰かの労働が、静かに消費されている。知らされていない、という言い訳は成立するかもしれない。しかし心理学的には、知らないまま消費し続けることにも、代償がある。

「道徳的離隔(Moral Disengagement)」という概念。自分の行動が誰かを傷つけている可能性から、意識的・無意識的に距離を置くメカニズムだ。「私一人が買わなくても変わらない」「企業が悪いのであって私は悪くない」。そういう思考は、自己防衛として自然に働く。しかし積み重なると、感覚が鈍化していく。思い当たることはないだろうか。例えば、ゴミの分別。「私だけ、一生懸命やっても意味ないよね」...とか。そう思った瞬間、少し手を抜いた経験が、誰にでもあるはず。私にだってある。あの感覚と、構造は同じだ。小さな無感覚が積み重なり、やがて「考えないこと」が習慣になっていく。

安い服を何も考えずに着続けることは、その鈍化を日常的に強化することでもある。ファッションは肌に最も近いものだ。毎日身につけるものへの無感覚は、やがて他のことへの無感覚にも繋がっていく。

何を着るかは、どう感じるかと、思いのほか深く繋がっている。

視座のズレは、情報の非対称性から来る部分が大きい。服の値段は見えても、その服が生まれるまでのプロセスは見えない。見えないものには、無感覚になれる。だから問題は続く。

古着市場の成熟が変えたもの

かつて、古着は「仕方なく着るもの」だった。少なくとも私はそう思っていた。人が着たもの、来歴のわからないもの、という抵抗感があった。しかし今、古着市場は様変わりしている。フリマアプリの普及、セレクト古着店のキュレーション力の向上、そして何より、新古品・未使用品の流通量が増えたことで、古着は「掘り出し物に出会う場所」へと変貌した。ラグジュアリーブランドのリセール市場は世界的に拡大しており、2030年には約18兆円規模に達するという予測もある。

私自身も、価値観が変わった出来事がある。あるリユース市場で、新古品のジバンシーのバッグに出会った。ギャランティカードも揃っている。状態は、どこから見ても新品と変わらない。そしてその価格は、破格の10万円以下だった。今、私にとってのブランドバッグは、この一つだけだ。

これは節約の話ではない。「出会う」という体験が、消費の質を変えたという話だ。バブル時代に大量に買い込んだブランド品のどれよりも、このバッグには物語がある。探して、見つけて、選んだ、という能動的なストーリーが、モノへの愛着を全く別の次元に引き上げる。

本当の豊かさを、服で考える

サステナブルという言葉は、ともすれば「我慢」「制限」のイメージで語られる。しかし本質はそこではないと思っている。

少ないもので、深く満たされること。

大量に持つことで得られる安心感は、実は安心ではなかった。バブル時代のクローゼットがそれを証明している。一方で、吟味して選んだ一点には、値段を超えた満足や愛着を生む。

希望を感じた場面がある。ある美容系専門学校を取材した時のことだ。10代後半から20代前半の学生たちが、古着のコーディネートを当たり前のように、そしてスタイリッシュに楽しんでいた。しかしよく見ると、そのどれもがブランド品だ。エルメスのネクタイ、サンローランの白シャツ...。「何件もハシゴして、掘り出し物を探し当てるんだ〜よ」と嬉しそうに語る姿は、微笑ましくもある。そして「ない時は、何も買わない」のだとも。徹底している。

バブル世代が「持つことで満たされようとした」のとは、根本的に違う消費の哲学がそこにあった。

「最近の若いもんは」と愚痴るおじさんは今も絶えないが、私はこの子たちにファッションの未来を見た。選ぶ眼を持ち、持たない潔さを知っている世代が、業界を変えていくだろう。

売る側には、数字だけでなく、モノの背後にある文脈を売る力が求められる時代になった。買う側には、安さや新しさだけでなく、「なぜこれを選ぶのか」という視点が求められている。

ファッションは、消費の鏡だ。何を買うかは、どう生きるかと、思いのほか深く繋がっている。

クローゼットを開けた時に、全部が「好き」と言えるものだけが入っていたら、それはかなり豊かな状態だと思う。自分への戒めもこめて。

















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