「浪費と消費」島根大学法文学部後期2025年

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学び

(1)問題


① 「不要不急の外出」「不要不急の仕事」「不要不急のイベント」「不要不急の冠婚葬祭」……。この四字熟語は様々な言葉に付されました。この熟語自体の定義は非常に単純なものであり、広辞苑には,「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」と書かれているそうです。

② 定義を見ると、不要不急が「必要」に関わっていることが分かります。この熟語の核心にあるのは、必要の概念に他なりません。では必要とは何か。必要という言葉は日常でも非常によく使う言葉であるわけですが、その意味するところは意外に①フクザツです。たとえば必要は要請と似ているけれども、かなりニュアンスが違う。要請の場合は、要請する主体が想定されている感じがあるし,また、要請されていることが必ずしも提供されない可能性もまた想定されている。それに対し、必要の場合は、対象が必ず提供されねばならないというニュアンスがある。他にも必要と似ているが異なる言葉と、これを差異化してみることができるでしょう。

③ 今日,これから必要について指摘してみたいのは、それが何らかの目的と結びついているということです。必要と言われるものは何かのために必要なのであって、必要が言われる時には常に目的が想定されている。目的とはそれの「ために」と言い得る何かを指しています。必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せません。

④ とても十分ではありませんでしたが、僕はすこしだけ必要の概念について考察したことがあって、それが2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』という本です。この本では、贅沢や浪費といった一見したところ退けるべきと思われる行為に注目しつつ、単に人間が生存していることと、人間が人間らしく生きることとの区別を試みています。

⑤ 参考になったのは、20世紀フランスの社会学者·哲学者ジャン·ボードリヤールの消費論でした。順を追ってその議論を説明していきましょう。出発点となるのは(A)贅沢の概念です。贅沢とは何でしょうか。それは何らかの限界を超えた支出と考えることができます。ではどんな限界か。豪勢な食事は贅沢と言えますね。仕立てのよい衣装も贅沢と言えるかもしれません。なぜでしょうか。そうした食事や衣装がなくても人間は生きてはいけるからです。つまり、それらは人間の生存にとっては必要ではないからです。するとこう考えることができるでしょう。我々は、人間の生存にとっての必要という限界を超えた支出が行われる時に、それに贅沢を感じる,と。

⑥ 贅沢はしばしば嫌われ、退けられます。というのも,それはしばしば無駄だと捉えられるからです。確かに贅沢は生存の観点から見れば、無駄です。しかし、だったら生存に必要なものだけがあればいいのでしょうか。生存に必要なものだけがある生活とはどんな生活でしょうか。それは何らかのアクシデントがあれば②ヨウイに崩れ去ってしまうようなギリギリの生活でしょう。ギリギリの生活の中で人間は充実感を抱くことができるでしょうか。あるいは豊かさを感じることができるでしょうか。昔から腹八分目と言いますし、人間の生存あるいは長生きにとってはその方が望ましいのかもしれません。けれども、やはり人間は時には美味しいものを腹いっぱい食べたい,十二分に食べたいと思うのではないでしょうか。あるいはまた、自らの服装にこだわることで、自分らしさとか充実感を味わうことができるのではないでしょうか。

⑦ 実際、どんな社会も豊かさを求めたし、贅沢が許された時にはそれを享受してきた,とボードリヤールは言っています。あらゆる時代において、人は買い,所有し、楽しみ,使った。「未開人」の祭り,封建領主の浪費,19世紀ブルジョワの贅沢……他にもさまざまな例が挙げられるでしょう。贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ,充実感を得てきたのです。

⑧ 人類はずっと浪費を楽しんできた。ところが、20世紀になって人類は突然全く新しいことを始めた,とボードリヤールは言います。それが「消費」です。つまり(B)ここで消費は浪費と区別されて用いられています。浪費は生存のための必要を超えた支出の享受を意味しました。それは言い換えれば、限界を超えて物を受け取ることです。限界を超えて物を受け取るわけですから、浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。たとえば、十二分に食事をして満足したら、お腹がいっぱいになって食事は終わる。つまり浪費には終わりがある。

⑨ ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。たとえばグルメブームのようなものを考えてみると分かりやすいでしょう。あるお店が流行しているからという理由で人はそこに赴く。そして一定の時間が経つと、今度は別のお店が流行しているからという理由で別の店に赴く。どうして人がこのような行動を繰り返すのかと言えば、それは「その店に行ったことあるよ」と人に言うためです。最近ならば、画像をネット上に投稿するためでしょう。この消費行動はいつまでも終わりません。なぜならば、そこで人が受け取っているのは物そのものではなくて、「あのお店に行った」という観念だからです。記号とか情報と言ってもいい。

⑩ 消費において人は物そのものを受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指して、ボードリヤールは消費を観念論的な行為とも呼んでいます。

⑪ 消費のメカニズムを応用すれば、経済は人間を終わりなき消費のサイクルへと向かわせることができます。20世紀にはこれが大々的に展開され、大量生産·大量消費·大量投棄の経済が作り上げられるとともに,人類史上,前例のない経済成長がもたらされました。同時にそれは③ジンダイな環境破壊も引き起こしました。

⑫ 現在、環境破壊についての反省は様々な形で進行していて、地球環境問題は世界中で大きな関心を集めています。ただ、地球環境問題のような巨大な問題に基づいて消費社会の問題点を理解するのでなくても、人間はこの消費という行動にどこか感性的な違和感を抱くことがあるだろうと思います。つまり、消費社会が我々を「消費者」になるように駆り立てることそのものになんとなく反発を感じるということです。ボードリヤールによる消費社会批判も,根底には消費に対する感性的な反発がありました。

⑬ ただ、そうして消費行動に感性的な反発を感じたにせよ、消費社会の問題点を知性的に理解したにせよ、問題はそこからどこに向かうべきかということです。僕の個人的な経験を交えて言いますと、この問題が日本を捉えたのはバブル経済以後だと思います。つまり日本が経済的な豊かさを享受し始めてからです。経済的に貧しかった時は経済的な豊かさを求めることに特に疑問は抱かれない。けれども、経済的な豊かさが達成されると、これでよいのかという疑問が出てくるとともに、ここからどこに向かうべきなのかという悩みが人を捉えるようになる。

⑭ 1989年,バブル経済の全盛期に出版された暉峻淑子(てるおかいつこ)著『豊かさとは何か』はベストセラーとなり、僕が大学生だった90年代なかばでもよく読まれていました。これは物質的な豊かさばかりを追求してきた日本に対して④ケイショウを鳴らした本です。僕も確か大学生の頃にこの本を読みました。概ね賛成だったのですが、どこか不満も感じていました。物質的な豊かさだけではダメだということはよく分かる。けれども、その反対のものが何うまく言葉にされていない気がしたのです。そして、物質的な豊かさのみを求める社会にノーを突きつけるだけでは何かまずいことになるのではないかというボンヤリとした懸念を抱いていました。

⑮ その時に感じていた懸念は,1992年に中野孝次の『清貧の思想(注)』がベストセラーになると、僕の中で強い反発へと転じました。これはおかしいと思った。しかしこの反発を言葉にするまでには時間がかかりました。この反発を感じてから20年近くたって、僕は『暇と退屈の倫理学』を書き,大学生当時の自分が感じていた反発をその中でやっと言葉にすることができました。

⑯ この本で僕が強調したのは次の点です。消費社会は僕らに何の贅沢も提供していない。「次はこれだ、その次はこれだ」と僕らを消費者になるように駆り立てている消費社会は、僕らを焦らせているだけで、すこしも贅沢など提供していない。つまり消費社会の中で僕らは浪費できていない。(C)僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている

⑰ だとすれば、むしろ贅沢を求め、物そのものを受け取って浪費することこそが大切ではないのか。それは人間に充実感や豊かさをもたらす。そして何より,浪費は満足によって止まる。物の受け取りには限界があるからです。それに対して消費には限界がない。だとすると、消費社会がもたらす贅沢を退けて「清貧」に生きるべきだという主張は、消費社会の根本的な特徴のみならず,人間にとっての豊かさの大切さをも捉え損ねている。これが『暇と退屈の倫理学』の大きな主張の一つでした。
(出典)國分功一郎『目的への抵抗シリーズ哲学講話』(新潮社,2023年)一部改変

(注)清貧:私欲がなく行いが正しいために、貧しく暮らしていること。

問1 太字1~4のカタカナを漢字で書きなさい。

問2 太字Aについて、筆者は、「贅沢」をどのような概念として捉えているか。100字以内で説明しなさい。

問3 太字Bについて、筆者は、「浪費」と「消費」にどのような違いがあると考えているか。80字以内で説明しなさい。

問4 太字Cについて、「僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている」とは、どのような行為が考えられるか。本文中にあげられているものを除いて,具体例をあげて説明しなさい。

浪費.png

(2)解答例


問1 ①複雑 ②容易 ③警鐘

問2 

贅沢とは何らかの限界を超えた支出であり、人間が生存するという目的にとっての必要という限界を超えた支出が行われる時に私たちはこの行為の対象に贅沢を感じる(76字)。

問3 

浪費は生存のための必要を超えた支出を享受し限界を超えて物を受け取ること。浪費は満足をもたらすので浪費は止まる。消費の対象は物ではなく観念や記号や情報であり終わりがないためいくら受け取っても満足しない。(80字)

問4 

 かつては酒や煙草が「男らしさ」の記号として消費されていた。名画の男優が煙草をくゆらすシーンはその俳優の魅力を醸しだし、いわゆる「かっこいい」男として煙草は演出に利用されていた。酒も「仕事ができる男」のイメージを付与されていて、酒のコマーシャルには憧れの俳優が起用されていた。大学や会社の新人歓迎会では、必ず先輩から大量の飲酒を勧められ、これに応えることができれば、仲間に加入することを認められていた。

 このように、酒や煙草は男性同士がホモソーシャルな関係を築くツールとして消費された。だが、「男らしさ」は記号であって形がなく、いくら酒を飲み煙草を吸っても男らしさを実感する満足は得られないし、得られても酒を飲み煙草を吸う一時だけのもので終わり、酒や煙草が切れれば不安になる。人々はそんな不安感を紛らわすために、また酒や煙草を手に取る。こうした無限のループに陥った結果、多くの男性は依存症になった。(398字)

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