彩りは、少し足りないくらいがちょうどいい

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コラム
世界は、驚くほどたくさんの彩りに満ちている。  
煌びやかな景色、美しい食べ物、流行に敏感な人たち。  
SNSを開けば、まばゆいほどの「素敵な毎日」が、画面いっぱいに押し寄せてくる。

でも、私は思う。  
世界は、彩りに少し欠けるくらいがちょうどいい。

煌めく世界に生きている人たちがいる。  
たとえば、毎日カフェでおしゃれなスイーツを撮ってアップするインスタグラマー。  
朝から夜まで予定をぎゅうぎゅうに詰めて、イベントに顔を出して、最新のファッションに身を包んでいる人たち。

きっと、そんなふうに生きるのは、とても楽しいのだろう。  
刺激的で、華やかで、満たされているように見える。

だけど、私は、そういう生き方を「羨ましい」と思うことがほとんどない。  
なぜなら、世界が常にキラキラしていないと満足できない生き方は、どこかで疲れやひずみを生む気がしてならないからだ。

華やかさを追い求め続けなければならないプレッシャー。  
それはある意味、「キラキラ依存症」と呼んでもいいのかもしれない。

キラキラしていることは、もちろん素敵だ。  
でも、それが「常に」である必要はない。

むしろ、たまに現れるからこそ、輝きは本当に胸に沁みるのだと思う。

日常に隠れた、小さな喜び。  
たとえば、家に帰ってきて、冷蔵庫から取り出した昨日の肉じゃがをレンジで温める。  
そのホッとする瞬間、立ちのぼる湯気と甘辛い匂い。  
それは、シャンパンや高級レストランのコース料理に負けないくらい、心を満たしてくれる。

常に美味しいもの、常に特別なものばかりを求め続けると、人はきっと、どこかで「感動する力」を失ってしまう。  
だからこそ、少し物足りないくらいの毎日が、私には心地よい。

世界の彩りは、たまに顔を出すからこそ、美しい。

たとえば、曇った空ばかり見ていた日に、ふと覗いた青空。  
忙しさに追われていた週の、思いがけない休日の朝の静けさ。

そんなふうに、不意に訪れる「キラキラ」は、心に深く、長く残る。

それは、常に最先端を走ることとは違う種類の喜びだ。  
派手さはないかもしれないけれど、たしかに温かくて、豊かだ。

私は、キラキラしている人を否定するつもりはまったくない。  
むしろ、自分の人生を最大限に楽しもうとする姿勢は、心から素敵だと思う。

でも同時に、世界を少し淡く見つめながら、時折訪れる小さな光に目を凝らして生きることも、同じくらい素晴らしいと信じている。

常に満たされている必要なんてない。  
満たされないときにこそ、見えるものがある。

世界がちょっと色褪せて見える日も、  
そのくすんだ景色の中に、そっと咲く小さな花を見つけることができたなら。  
それは、たぶん誰よりも豊かな生き方だと、私は思うのだ。



世界は、彩りに少し欠けるくらいが、ちょうどいい。

そうやって、今日も私は、私なりの光を見つけながら生きていこうと思う。


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