長編小説を書き始めてしばらくの間、私が書くキャラクターは、どこか記号のようでした。
クールな人、明るい人、真面目な人、気まぐれな人。性格を一言で決めて、その言葉に合うセリフと行動を並べていく。書いている間は、それで十分にキャラクターを作れているつもりでした。ところが書き進めるうちに、だんだん様子がおかしくなってきます。クールな人は、ただ口数が少ないだけの人になり、明るい人は、ただ賑やかなだけの人になっていく。物語が長くなるほど、キャラクターが決めたひと言の中に閉じ込められて、そこから一歩も動けなくなるのです。
当時の私は、その原因を自分の文章力のせいだと考えていました。描写が足りないのか、セリフの言い回しが単調なのか。そう思って表現を磨こうとしましたが、書き直しても書き直しても、手応えは変わりませんでした。問題は言葉の選び方ではなく、もっと手前にあったのです。
いま振り返ると、私は「このキャラクターはどんな人か」は決めていても、「なぜその人はそうなのか」を一度も決めていませんでした。冷静なのはなぜか。明るく振る舞うのはなぜか。その理由がないまま性格だけが先にあるので、対立シーンになると、キャラクターがなぜそこまで譲らないのか、書いている私自身が説明できなくなります。
主人公とぶつかる場面で、とりあえず反対の立場を取らせてみる。けれど読み返すと、ただ言い争っているだけで、心が動いた形跡がどこにもない。そんな場面を、何度も書いては消しました。
もう一つ、記号的なキャラクターの特徴は、状況が変わってもまったく同じ反応をすることです。追い詰められても、褒められても、裏切られても、決めた一言のとおりに振る舞い続ける。人間は、同じ人でも、余裕のあるときと追い詰められたときでは違う顔を見せるものです。その揺れがないから、キャラクターは生きている人というより、物語を進めるための部品のように見えてしまいます。
私が書いていたのは、まさにそういう部品でした。
この状態から抜け出せたのは、エニアグラムをキャラクターに当てはめてみてからです。エニアグラム自体は、キャラクター創作を始める前から、自分自身を理解するために学んでいたものでした。ただ、それを創作の道具として使えるとは、しばらく思い至りませんでした。
根源的な欲求と恐れという視点を、キャラクターの性格の奥に置いてみる。それだけで、一言で済ませていた性格に、「だからこの人はこう振る舞う」という理由が生まれました。理由があると、状況が変わったときの反応も、自然に想像できるようになります。
記号的なキャラしか書けなかった頃を思い返して、いちばん強く感じるのは、あの時期は無駄ではなかったということです。うまくいかない手応えを何度も味わったからこそ、性格の一言の奥に何が必要なのかを、実感として探すようになりました。もし最初から整った方法を知っていたら、足りないものが何なのか、ここまで切実には考えなかったと思います。
いまも、新しいキャラクターを作るとき、ふと昔の書き方に戻りそうになる瞬間があります。性格を先に決めてしまいたくなるのです。そのたびに、あの頃の自分を思い出して、まずその人が何を求め、何を恐れているのかを、静かに聞いてみるようにしています。