その手を、離した理由

その手を、離した理由

記事
コラム
翌朝。
凪は、いつもより少し丁寧に髪をとかした。

鏡の前で、前髪を直す。

また直す。

そして、自分で笑ってしまった。

「……何してるんだろ。」

昨日、陽菜と手をつないだ。

ただ、それだけなのに、指先の温かさがまだ残っている気がした。

スマホを開く。
昨夜の最後のやり取り。

『また、つないでもいい?』

『私からつないでもいい?』

『……うん』

『待ってる』

凪は、画面を見つめた。

今日、本当に、つないでいいのかな。

学校で?

帰り道で?

それとも、昨日のことは、昨日だけのこと?

考えているうちに、胸がうるさくなった。

教室に入ると、陽菜がいた。

美咲と話している。

凪に気づくと、陽菜が手を振った。

「おはよ、凪。」

「……おはよう。」

いつもと同じ。

それなのに、
陽菜の顔を見た瞬間、昨日つないだ手を思い出した。

凪は、自分の右手をそっと握る。

すると、陽菜が近づいてきた。

「ねえ。」

「なに?」

「昨日、ちゃんと寝られた?」

「……なんで?」

「いや、なんとなく。」

陽菜が笑う。

凪は少しだけ唇をとがらせた。

「陽菜こそ。」

「私?」

「寝られた?」

陽菜は一瞬黙った。

それから、凪の耳元に顔を寄せすぎない距離で、小さく言った。

「……ちょっとだけ、寝不足。」

凪の頬が熱くなった。

「……私も。」

陽菜が笑った。

その笑顔が、昨日より少し近く感じた。

昼休み。
凪は、購買へ向かおうとしていた。

「凪。」

後ろから呼ばれる。

悠真だった。

「ちょっといい?」

「……うん。」

悠真は、いつものように笑っていた。

でも、その目は少し真剣だった。

「昨日、陽菜と帰ったんだよな。」

「……うん。」

「楽しかった?」

凪は、少し戸惑った。

「うん。」

「そっか。」

悠真は窓の外を見る。

しばらくして、言った。

「俺さ、昨日ちょっと考えた。」

「……何を?」

「凪のこと。」

凪の胸が、小さく鳴る。

悠真は続けた。

「好きって言ったの、後悔してない。」

「……うん。」

「でも、好きって言ったからって、
 凪が俺を選ばなきゃいけないわけじゃないよな。」

凪は、顔を上げた。

「悠真……。」

「分かってるつもりだったんだけど。」

悠真が苦笑する。

「昨日、陽菜と帰るって言われたとき、正直、結構きつかった。」

「……ごめん。」

「だから、謝るなって。」

悠真は笑った。

「俺が勝手に好きになったんだから。」

その言葉が、凪には少し痛かった。

勝手に。

そんなことない。

私だって、悠真が好きだった。

本当に。

でも、今、
その「好き」は、どこにあるんだろう。

悠真が言った。

「ひとつだけ、聞いていい?」

「……うん。」

「凪はさ。」

少し間を置く。

「陽菜のこと、好きなの?」

凪は、息を止めた。

教室のざわめきが、遠くなる。

「……え?」

「友達としてじゃなくて。」

悠真は、凪をまっすぐ見た。

「そういう意味で。」

凪は、何も言えなかった。

心臓が、速い。

答えは、きっと、もう分かっている。

でも、口にした瞬間、何かが変わってしまう気がした。

「……まだ、分からない。」

ようやく、そう答えた。

悠真は少しだけ目を伏せた。

「そっか。」

そして、小さく笑った。

「でも、否定はしないんだな。」

その一言に、凪の胸が痛んだ。

放課後。
凪は、陽菜と帰る約束をしていた。

教室で鞄をまとめていると、美咲が声をかけてきた。

「ねえ、凪。」

「ん?」

「最近、陽菜とほんと仲いいよね。」

「……そう?」

「うん。なんか、二人だけの空気ある。」

凪は、思わず顔を上げた。

「……そんなことないよ。」

美咲は笑った。

「別に悪い意味じゃないよ。」

そして、少しだけ声を落とした。

「でもさ、陽菜、最近すごく楽しそう。」

凪の胸が、温かくなった。

「……そうなんだ。」

「うん。凪といるとき、特に。」

その言葉が、凪の中に残った。

校門の前。
陽菜が待っていた。

「凪!」

「ごめん、待った?」

「ううん。」

二人で歩き始める。

昨日と同じ道。

同じ時間。

同じ夕焼け。

でも、昨日とは違うことが、ひとつあった。

凪は、陽菜の右手を見ていた。

昨日、つないだ手。

今日は、まだ。

つないでいない。

陽菜も、何度か凪の手元を見ている気がした。

気のせいかな。

凪は、少しだけ近づいた。

肩が触れそうになる。

陽菜が、こちらを見る。

「……なに?」

「なんでもない。」

凪は笑った。

でも、本当は。
なんでもなくなかった。

歩道橋の手前。

人通りが少なくなったところで、
凪は、そっと手を伸ばした。

陽菜の指先に触れる。

陽菜が、驚いたように凪を見る。

凪は小さく言った。

「……昨日の約束。」

陽菜の顔が、ふわっと赤くなった。

「……覚えてたんだ。」

「うん。」

「私も。」

そして、今度は陽菜から、指を絡めた。

手がつながる。
昨日より自然に。

昨日より、少しだけ強く。

凪は、前を向いたまま笑った。

陽菜も笑った。

何も言わない。

でも、それで十分だった、
――はずだった。

「……凪?」

後ろから声がした。

二人は振り返る。

悠真だった。

悠真の視線が、二人の手に落ちた。

その瞬間。
陽菜が、反射的に手を離した。

凪の指先から、温かさが消える。

ほんの一瞬のことだった。

でも、
凪には、その一瞬がとても長く感じられた。

「……悠真。」

凪が言う。

悠真は、二人を見た。

そして、少しだけ笑った。

「……一緒に帰ってたんだ。」

「うん。」

凪は答えた。

陽菜は何も言わない。

悠真が言った。

「陽菜、ちょっと話せる?」

陽菜が顔を上げる。

「……私?」

「うん。」

凪は、二人を交互に見た。

「私もいたほうがいい?」

悠真は首を振った。

「少しだけ、二人で。」

陽菜は、しばらく黙っていた。

そして。

「……分かった。」

凪は少し離れた自動販売機の前で待つことにした。

二人の姿は見える。

でも、声は聞こえない。

凪は、さっきまでつないでいた手を見つめた。

どうして、離したんだろう。

悠真に見られたから?

恥ずかしかったから?

それとも、知られたくなかった?

胸の奥に、小さな不安が生まれた。

「陽菜。」

悠真が言った。

「……なに?」

「単刀直入に聞いていい?」

陽菜はうなずいた。

悠真は、一度だけ凪の方を見た。

「陽菜ってさ。」

少し間を置く。

「凪のこと、好きなの?」

陽菜の顔から、笑顔が消えた。

「……え?」

「友達としてじゃなくて。」

悠真は続けた。

「俺と同じ意味で。」

陽菜は、すぐには答えなかった。

遠くで車が走る音がする。

風が吹く。

陽菜の髪が、少し揺れた。

「……どうして、そんなこと聞くの?」

「俺、凪が好きだから。」

悠真は、はっきり言った。

「ちゃんと告白した。」

「……うん。」

「返事は待ってる。」

陽菜は、目を伏せた。

悠真が続ける。

「でも、陽菜が凪のこと好きなら。」

一度、息を吸う。

「俺も、ちゃんと知っておきたい。」

陽菜は、黙っていた。

悠真は、責めなかった。

急かしもしなかった。

ただ、待っていた。

やがて、陽菜が小さく言った。

「……私ね。」

悠真が顔を上げる。

「凪のこと、ずっと友達だと思ってた。」

「……うん。」

「一緒にいると楽しくて。」

「うん。」

「なんでも話せて。」

陽菜は、少しだけ笑った。

「でも、最近。」

その笑顔が、揺れた。

「凪が誰かを好きだって聞くと、苦しくなる。」

悠真は何も言わなかった。

「凪が私を選んでくれると、すごくうれしい。」

陽菜の声が震えた。

「手をつないだだけで、帰ってからもずっと考えてる。」

悠真の目が、わずかに揺れた。

陽菜は続けた。

「これが何なのか、ちゃんと考えようとしてる。」

そして、ゆっくり顔を上げた。

「でも。」

悠真をまっすぐ見た。

「たぶん、もう答えは出てる。」

悠真は、息を止めた。

「……そっか。」

しばらく、二人とも黙っていた。

やがて、悠真が言った。

「じゃあ、なんでさっき手を離したの?」

陽菜の目が揺れた。

「……え?」

「俺が来たとき。」

陽菜は、何も言えなかった。

悠真は少し笑った。

寂しそうに。

「凪、傷ついたと思うよ。」

その言葉が、陽菜の胸に刺さった。

「……。」

「俺に気を遣ったんだろうけど。」

悠真は、凪の方を見た。

「凪は、陽菜と手をつないでたかったんじゃない?」

陽菜は、はっとした。

さっきの凪の顔を思い出す。

手を離した瞬間。

凪は、少し驚いた顔をしていた。

そして、寂しそうだった。

陽菜は、唇をかんだ。

「……そうだね。」

悠真が、小さく息を吐く。

「俺、陽菜には負けたくない。」

陽菜が顔を上げる。

「……うん。」

「でもさ。」

悠真は、少し笑った。

「凪を悲しませてまで、勝ちたくはないんだよ。」

陽菜の目が、潤んだ。

「……悠真。」

「だから。」

悠真は言った。

「俺に遠慮すんな。」

そして、少しだけ視線をそらした。

「……めちゃくちゃ悔しいけど。」

陽菜は、思わず笑ってしまった。

「……ありがとう。」

悠真も笑った。

でも、その笑顔の奥には、確かな痛みがあった。

「凪!」

陽菜が駆け寄ってきた。

凪は顔を上げる。

「……終わった?」

「うん。」

悠真は少し離れたところで手を振った。

「じゃあな、凪。」

「……悠真。」

「また明日。」

いつもの声。

いつもの笑顔。

でも、少しだけ違って見えた。

悠真は振り返らずに歩いていった。

凪は、その背中を見送った。

そして、陽菜を見る。

「……何話してたの?」

陽菜は少し考えた。

「凪のこと。」

胸が鳴る。

「……私?」

「うん。」

「何て?」

陽菜は、凪を見た。

「……ごめんね。」

「え?」

「さっき、手、離しちゃって。」

凪の胸が、きゅっとなる。

やっぱり、気づいてたんだ。

「……うん。」

陽菜は、少しだけ目を伏せた。

「悠真に見られて、びっくりして。」

「……うん。」

「それに、悠真の気持ちも知ってたから。」

凪は黙って聞いていた。

陽菜が続ける。

「でも。」

ゆっくり顔を上げる。

「凪がどう思うか、考えてなかった。」

凪は、少しだけ笑った。

「……寂しかった。」

陽菜の目が揺れる。

「……うん。」

「私、陽菜と手をつないでたかったから。」

陽菜は、息を止めた。

それから。

ゆっくり手を差し出した。

「……もう一回、いい?」

凪は、その手を見た。

昨日より、今日の方が、
ずっと勇気がいる。

だって、もう、何も知らないふりはできないから。

凪は、そっと手を重ねた。

陽菜が握る。

今度は、離さなかった。

「……ねえ、凪。」

「うん。」

「さっき、悠真に聞かれたの。」

「……何を?」

陽菜は、つないだ手を見つめた。

そして、小さな声で言った。

「凪のこと、好きなのかって。」

凪の心臓が、跳ねた。

「……え?」

陽菜は、ゆっくり凪を見る。

「私ね。」

声が震えていた。

「ちゃんと答えようと思ったんだ。」

凪は、息を止めた。

「……何て答えたの?」

陽菜は、少し笑った。

泣きそうな顔で。

「たぶん、もう答えは出てるって。」

風が吹いた。

二人の髪が揺れる。

凪は、陽菜を見つめた。

胸が苦しい。

でも、逃げたくない。

「……陽菜。」

「うん。」

「その答え。」

一度、息を吸う。

「私にも、聞かせてほしい。」

陽菜の目が、大きく揺れた。

そして、ゆっくり口を開いた。

「凪。」

「……うん。」

「私、凪のこと――」

そのとき、近くの踏切が鳴り始めた。

カン、カン、カン。

電車が通り過ぎる。

陽菜の声が、かき消される。

凪は、思わず笑ってしまった。

「……聞こえなかった。」

陽菜も、少し笑った。

「……だよね。」

電車が通り過ぎる。

踏切の音が止む。

静けさが戻る。

陽菜は、もう一度凪を見た。

そして、今度は、はっきり言った。

「私、凪が好き。」

凪の目が、大きく開いた。

陽菜は続けた。

「友達としても、大好き。」

「……うん。」

「でも、それだけじゃない。」

陽菜の声が、少し震える。

「凪と手をつなぎたい。」

「うん。」

「明日も、明後日も、一緒に帰りたい。」

「……うん。」

「凪が誰かを好きになるなら。」

陽菜は、少しだけ笑った。

「その誰かが、私だったらいいなって思う。」

凪の目から、涙がこぼれた。

自分でも、驚いた。

どうして泣いてるんだろう。

うれしいのに。

こんなに。

うれしいのに。

「……凪?」

陽菜が心配そうに覗き込む。

凪は首を振った。

「……ごめん。」

「どうしたの?」

「うれしくて。」

陽菜の目が、潤んだ。

凪は、つないだ手に力を込めた。

「私も……。」

言いかけて。

止まった。

悠真の顔が浮かんだ。

昨日の告白。

今日の笑顔。

ちゃんと返事をしなければいけない人。

凪は、涙をぬぐった。

そして、陽菜を見た。

「陽菜。」

「うん。」

「私、ちゃんとしたい。」

「……うん。」

「悠真にも、自分にも。」

陽菜は、ゆっくりうなずいた。

「待つよ。」

その言葉に、凪の胸が温かくなった。

「……ありがとう。」

陽菜は笑った。

「でも。」

「ん?」

少し照れたように。

「手は、つないでてもいい?」

凪は、涙のまま笑った。

「……うん。」

二人は、また歩き始めた。

つないだ手を、今度は離さずに。

その夜。

凪は国語のノートを開いた。

好きの未然形。

その下には、好き。

そして、でも、まだ言わない。
と書いてある。

凪は、しばらくその文字を見つめた。

それから、鉛筆を持った。

「でも、まだ言わない。」

その一文に、そっと一本の線を引いた。

そして、下に書いた。
好きだから、ちゃんと伝える。

凪は、スマホを手に取った。

悠真とのトーク画面を開く。

指が震える。

でも、もう、逃げたくなかった。

『悠真、明日少し話せる?』

送信。

すぐに既読がついた。

『うん。話そう。』

凪は、深く息を吸った。

明日。

ずっと好きだった人に、
ちゃんと返事をする。

そして、そのあとで。

今、好きな人に、
自分の気持ちを伝えよう。

窓の外には、秋の月。

静かな夜だった。

凪は、ノートを閉じた。

好きの未然形が、
ようやく、未来へ向かって動き始めた。
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