「ねえ、知ってる?」
アイスコーヒーをひと口すすって、奈央さんが小さく笑った。
「今日、7月26日って、“日光山(にっこうさん)”が名づけられた日だって言われてるんだよ」
わたしは思わず、「えっ、誰が名づけたの?」と聞き返してしまう。
「弘法大師・空海さん。あの、真言密教をひらいた人」
奈央さんは、日差しが差し込む窓の外を見ながら話し続けた。
昔、この山は「二荒山(ふたあらさん)」って呼ばれていたらしい。
でも空海さんがこの地を訪れたとき、
「にっこうさん」と音読みして、「日光山」という漢字をあてた──
そんな説が残ってるんだって。
「二荒(ふたあら)」が「日光(にっこう)」に変わる。
音の響きが、意味を呼び寄せたような命名だな、とわたしは思う。
「“光”って言葉がぴったりなんだよね。空気が澄んでて、静かで、どこか神さまがいるみたいな」
奈央さんがふっと目を細める。
たしかに、日光には「光」が似合う。
東照宮、二荒山神社、華厳の滝……。
あの辺りを歩くと、自然と背筋が伸びて、
自分の中の“静けさ”に気づかされる。
「たぶん空海さんは、その場に立った瞬間に感じたんじゃないかな。
あ、ここは“ひかり”だって」
「名前って、ふしぎなものだよね」と奈央さんは続けた。
「名づけることで、そのものの意味が決まる。
でも、ほんとうはずっとそこにあったものに、気づいて名前を与える──って感じかもしれない」
それって、自分の心に名前をつけてあげることにも似ている気がした。
“悲しみ”や“やさしさ”や“孤独”。
名前をつけた瞬間に、それは誰かと分かち合えるものになる。
「……で、何が言いたいかというと」
と奈央さんが最後に笑う。
「日光って、やっぱりいい名前だなってこと」
今日もまた、奈央さんと交わしたささやかな会話が、
心のどこかにやわらかい“光”を残していった。