東京から京都に移り住んで強く実感するのは、陰陽師たちが作った暦は、この京都を中心に据えて正確に天体観測して作った暦なのだなぁ、ということ。
関東圏にいるときには、それほど強く感じることのなかった季節感ですが、ここ京都ではパッキリと、二十四節気通り、まさにその日から気候がきり変わるからです。
世の中は温暖化とか異常気象とか言われているのにも関わらず、ここ京都では暦通り。歴史教科書や古典で習った世界は、ここから見た季節感と世界だったんだと思い、そして、ああやっぱり、ここが日本の中心地だったんだ、と改めて痛感するのです。
そして、今も変わらず通用する実用的な暦を作成してきたのは、宮廷に仕えた天文学者(陰陽師)たちだったわけなんで、彼らの働きがいかに優れたものであったのか、と思うと、静かな感動を覚えるのです。
写真の花びら餅は、関東では大人になるまでその存在を知らなかったのですが、京都ではお正月だけに食べる特別な和菓子です。中には白味噌あんが入っていて、甘く煮た牛蒡を包んだ牛皮からうっすらと、花びらに見立てたピンクが透けて見えることから、花びら餅と呼ばれ、悠久の歴史の中で伝えられてきた京都ならではの伝統菓子です。
このお菓子、正月が終わる前に3つほど違う店で食べましたが、味はそれぞれまるで違っていましたね。だから、京都では、和菓子を一つ食べて、ふ〜ん、こんなもんか、とそこで味を決めてしまわないでほしい。w
というのも、京都には無数の和菓子職人さんのお店が点在しています。
観光客向けに均一な工場的な味を出すことに徹する大手和菓子屋さんから、素材と対話しながら、パティシエも驚くような技術を繰り出す、小規模の老舗まで色々あるんです。
関東では和菓子屋さんは、どこも似たり寄ったりで、砂糖の味が前面に立ち、素材はわずかに感じる程度の和菓子を作るところがほとんどですが、京都の和菓子の世界は逆です。素材の癖(個性)をしっかりと出した上での味の調和があるんです。そこはフランス料理の世界と通じますね。
和菓子、特に練り切りは、傷みやすい和菓子をその日作っただけ売り切る形で営業するしかないため、拡張拡大はできません。そして素材もそのためだけに作っている農家さんとの契約があり、素材はその年できるのが遅ければ、適当な卸で購入したものを便宜的に使うというような判断もしません。そんなことをするくらいなら、そのお菓子を出す期間をずらします。
和菓子という商品を出すことではなく、和菓子という食の芸術を作り上げていることを職人さんたちが自覚しているからですね。
だから、和菓子は同じではなく、それを作り出す職人さんのいる店に直接行ってその和菓子を手に入れて、その作品の旬を味わうことでしか本当の京都の和菓子を味わうことはできないんです。
そして、茶道や俳句の季語にちなんだ共通の季節のテーマを掲げながらも、各店舗が自分の得意、不得意を持ち、素材との対話の中で、その年の菓子の表現を決めていく芸術世界なんです。
ちなみに、練り切りを京都では「蒸し菓子」と呼びます。
一般に羊羹は、1年2年、と非常用品にされるくらい長持ちしますが、京都のそうした老舗の羊羹はそんなに長くは持ちません。せいぜい、1ヶ月2ヶ月ということもあります。それは砂糖を大量に使って日持ちさせることが目的である以上に、羊羹の命である小豆の味を殺さないために、素材の味わいを残して作っているからです。
ですから、京都駅に並んでいるお土産用の和菓子は全部、工場生産の味であって、本当の京都の味ではありません。
外からの観光者はそのことを知らないので、せっかく京都に来たのに、京都の旬を味合わないなんて、もったいないなぁと、私たちは話しているんですよね。そもそもですが、京都の自営業は、ダイバーシティの世界です。
コーヒーひとつにしても、カフェや自家焙煎所はそれこそワンマイルに一つあるくらいたくさんあり、東京視点で見るとコーヒー激戦区ですが、それぞれの店がそれなりに棲み分けをおこなってるんですよね。
同じコーヒーでも和菓子でも、ポジショニングの部分で、微妙に違ったところで展開されている。(もちろん、同じところで勝負する店になってしまったら、どちらかが潰れますが。)
そしてそれを理解している京都人は、目的によって賢くお店を使い分けます。だから、どこのお店の手土産を持ってくるかで、相手が自分をどう思っているかがわかる、と京都人は言います。
他県民はそれを、性格悪っ!と捉えるのですが、京都人がそう言う理由は何も持ってくるもので人を値踏みしているわけではなく、その真意がだいぶ誤解されていると私は思います。
カジュアルな店のカジュアルな価格の手土産を持って来れば、あなたとの関係性は気の置けない関係性でいようね!と言う表現だし、桐箱に入った老舗のお菓子を持ってきたら、あなたとの関係性は何をさておき、最重要視しなくてはならない、公的な関係性です、っていう意味だと言うことです。
自分は、気兼ねない関係性でいようと思ってたのに、桐箱だったら、うわ〜あっちからすると、うちってそう言う関係?!って思いますやんか。
京都は狭いので、その店の格と言うのがわかります。だから、持ってくるもので関係性までもわかるっていうそう言う意味なんです。
プレゼントにもTPOがあるっていう世界観なんですよね。
何年か前、関東のインターナショナル幼児園で、園長先生にお礼を送る、と保護者グループが言った時、そのお礼の中身がなんと「スタバ」のコーヒーセットだったことがあって、私は、それはまずいでしょう。ってドン引きしたことがあったんですよ。
でも、関東のお母さんたちに、それがなぜTPO的に良くないのかと言うことが全く伝わらなかったんですよね。
弁護士さんやお医者さん、学歴もある平均よりもステイタスの高いところにいるそこの幼児施設の保護者たちに、いくらこちらが丁寧に説明しても、プレゼントは金額が一緒なら良いわけではないんですよ、送る相手に何を表現するかと言うことなんですよ、と言うことが全く理解できなかったんです。
スターバックスは、カジュアル量販店じゃないですか。3年以上も子供の成長を責任を背負ってみていただいた園長先生に贈るものじゃないですよ。
しかも、ドンキホーテで安く買える!って保護者たちは言っていた。
もう、頭抱えました。
お礼ってそう言うもんじゃないでしょう!!!!
京都人は絶対にそう言う野暮な判断はしないと思います。それが他県民との教養力の違いなんです。これは学校の勉強の成績の良し悪しとは関係のない賢さの世界だと私は思った記憶があります。
何もしらない他県民は、京都人を持ってくる手土産で人を値踏みする、とまことしやかにディスりますので、京都の人からしたら、もう説明することさえ無駄に思え、相手にしたくないから胸の内に秘めるわけです。
そんなふうに、どこが一番、とかいう視点ではなく、職人視点でものの適材適所を見極めると言う発想が、意識されないレベルで根付いているのが京都の人だと言うことを感じる毎日。
同じように和菓子にしても、東京視点のようにヒエラルキーの中で、どれが1番で他はまずい、という序列をつけているわけでないです。自分がどんな場面で利用するのか、その目的に合わせて、そこに適した店の使い方をしているんです。だから、何かにわっと集まることもなく、小さくても個性ある自営業がその立ち位置で、生き残れたりもしているんですよね。
ここで、西陣近くでよく立ち寄る和菓子店をちょっと解説してみたいと思います。短期滞在の観光客の参考になれば幸いです。
虎屋菓寮 京都一条店より
東京でも有名なとらやさんは、室町時代に始まったとされ、確かにそれだけ見れば老舗なんですけども、京都の茶人は、あれを京都の味と思って欲しくない、とおっしゃる。というのも、全国展開したものというのは、何かを妥協して作らなくてはいけないので、やっぱり大事なものが落ちてしまう、という意味なのだと思います。
ただ、京都在住目線で見る、とらやさんのいいところは、極めて平均的な菓子をそつなく作るところですね。そして色粉なども天然着色料を使っていて、添加物に気遣う自然派ヨーロッパ人であっても、安心して連れて行けるし、ホテルのような接客なので、価格は高いですけど、カフェはお庭の中に神社があって、ムードも出せるし、御所の隣でもあるし、まぁ、全体として大きな失点を取ることがなく優雅におしゃれに立ち寄れる和菓子屋併設カフェ、というところでしょうか。
こちらは鳴海餅本店です。
茶道の聖地ということもあって、おすすめは上京区西陣方面の和菓子屋さんが多いんですけど、職人の個性が出るお店といえば、餅米の炊き方が非常にうまい鳴海餅本店が堀川通り下立売通沿いにあります。和菓子職人のコミックの原作の題材にもなったお店だそうですが、ここは餅米の取り扱いがうまいので、そこで売っているお赤飯もふっくらして味わい深く、とにかく米を使った和菓子、例えば桜餅、おはぎ、だったり、苺大福なんか、得意なお店です。
ちょっと座って食べられるスペースもありますよ。
そして、こちらは塩芳軒さんです。
西陣に住まうときに町内会のあいさつのためにこちらに参ったところ、ここのご主人が、もうそれはそれは立派な受け答えをなさったんですよね。
私は感銘を受けてしまって、もう人の格というのが違う、と、京都人の凄さの最初の洗礼を受けたと言っても過言ではない。
私よりも10年20年も離れてない年の方だと思うんですけど、今の時代にこういう人がいるんだ、と一期一会で世界観が変わってしまった。
その130年の歴史ある塩芳軒・しおよしけんは、お菓子の方も、本格的な茶道家の方なら、立ち寄っていただきたい品格の高いお店です。派手な色はないけれども、小豆の味わいをしっかり残していて、少量でも満足感があり後味さっぱり。
和菓子だけを楽しむというよりも、お茶のマリアージュとしての和菓子をイメージするなら断然こちらです。
ご主人が出している季節の和菓子の本もとても勉強になります。
何よりお店の方の立ち居振る舞いがどの方も素晴らしく、派手さはないものの、ここならどこに出しても紹介しても間違いないと何かがあった時の引き出物に、信頼を寄せられるお店の一つです。
こちらは、茶道の聖地が並ぶ、紫野近くの今日庵近辺にある「茶さろんたわらや」です。ここは、石畳に町屋が並ぶ、京都らしい茶道具の店の並ぶ通りでもあり、着物で写真を撮りたいスポットですので、ちょっと散歩するのに良いです。織田信長が定宿にしていた、妙覚寺もあり、季節限定拝観をやっていることがあります。妙覚寺の施設の屋根は遠くから見ると、ピラミッドに見えるんですよ。普段は拝観できませんが、信長にちなんだ展示をやったりすることがあります。
そして、この俵屋さんの水無月が(6月に食べられるういろうみたいなお菓子)常盤貴子さんのお気に入りと謳われているのですが、正直、「ええ?京都人がここを選ぶかなぁ?」と疑問に思いまして、調べてみたら常盤さんは神奈川の方でした。
関東人ならいざ知らず、和菓子としての評価は、そこまで高いものじゃないです。工場の味、関東でも食べられるレベルの砂糖の多い重たい和菓子です。 で、この会社が京菓子資料館を運営しています。
和菓子を学ぼうと思うと、京菓子資料館へいかれる修学旅行生も多いですが、正直、それを和菓子と思って欲しくないなぁと思います。海外で規制がかかっている人工着色料を使い続けているの点でも時代のトレンドを追ってないと思いますし、お菓子がいきいきしていない。
だから、京菓子資料館で選ぶ和菓子は、俵屋さんの同じ工場で作られていて、観光がてらに便利に利用してしまいがちですが、和菓子のそのものを楽しむなら、別な場所の購入が良いです。
ただ、この俵屋さんの店舗では、いろいろな季節の砂糖菓子、干菓子が選べるのは楽しいですよ。一二百円を切るお値段で可愛いモチーフの綺麗な砂糖菓子が自分でチョイスできて、ちゃんと包装してくれるのはありがたいです。
それは日持ちもしますから、お友達に持って帰るお土産にするにはとても気の利いたお店ではないかと思います。
本格京都の和菓子を味わいたいなら、源水。
もう少し足を伸ばせば、北大路通り沿い近くの、北区区役所の近くにある紫野源水さんは、本物の和菓子職人さんといえる人の一人で、季節の素材をしっかり生かした和菓子屋さんです。こちらの蒸し菓子は午後には売り切れてしまうほど。
先日、ロンドンから遊びに来たお隣さん(カナダ人)の娘さん(すでに大人)と仲良くなった上の娘が、日本の和菓子と抹茶を立ててもてなすと決めて、スーパーの和菓子ではなく、本物の京都の味を教えたい、とここでチョイスして買っていきました。
おかみさんが娘に和菓子が何を表現しているかを詳しく説明してくれ、娘はそれをロンドンからきた女性に抹茶を立てながら、作法とか、お菓子について、英語で説明してきたらしいです。
子供たちに着物や茶道体験をあちこちでさせていたことが、ここで自然に活用されてきたのは、なんだか嬉しかったですね。w
源水さんは、職人技のひかる、和菓子そのものを楽しむ人のお店です。高島屋さんで限定発売されたこともありますが、せっかくならば、作ったその日に食べられる京都で味わってほしいです。
塩芳軒にしても、源水にしても、予約なしで誰でも買えるのもありがたいですね。
ちなみに、この写真の花びら餅も源水さんのところです。
そして、お菓子だけでなく、ここのおかみさんはお話が好きで、和菓子に非常に詳しくて、和菓子のいわれや素材のこと、歴史的なことを快く教えてくださるので、とても勉強になりますよ。
栗の季節の蒸し菓子の時は、本当に感激の味わいでした。
これが和菓子なのか!と、モンブランほどのベタッとしたしつこさがないまま、栗そのものの味わいがしっかり広がって、こんなの食べたことないわ〜と、最高でした!!
源水さんの強みは、単なる練り切りではなく、ここにつくねいもを入れていることだそう。つくねいもとは、関東で言う山芋のことですが、つくねいもを入れるのと入れないのとでは、味がまるで違う、と言います。
しかし、これを入れながら作る和菓子はスピーディに作業しなければ割れてきてしまうし、味も手の熱で変わってしまうほど扱いに技能がいるそうで、これを季節ごとのその時の素材に合わせて瞬時に判断して作り上げていくのが得意な職人さんがここなんです。
たぶん、他にもたくさん京都の味をもつ和菓子職人さんはいると思います。
そういうのを探して歩くのも、京都の旅の楽しみの一つですね。
さて、京都というと、みんな東山か祇園四条・京都駅、外国人なら伏見稲荷に行ってしまいますが、そこで売られている味は、そのほとんどが「観光客向け」で、どこの地方都市でも食べられるものです。
京都っぽさを出すために、とにかく何でもかんでも和っぽいものを集め、食べ物ではお抹茶味とか、きなこ味とかなんだか京都風な和風なものにしとけばいい、って感じで、誰からもクレームが出ない単純な味に仕立て上げて、量販しているものです。
でもね、本当の京都の味は少ないですよ。
東山で売っている一個単位が、六百円くらいする高級梅干しにしても、素材を見たら、アミノ酸が使われていて、本物の味で勝負できない土産物を高級脚色してたら、もうあかん!と思いました。
本当の京都の味は、外には出せません。アミノ酸(化学調味料)などの添加物も基本、使ってません。お出しの味わいには、鮮度や温度の問題が発生するので、結局、その場で食べることでしか、ちゃんと味わえないからです。
祇園にある料亭の料理だって、味の素を使ったらもうおしまいじゃないですか。味の素を使わずに出汁を取るとなるから、それこそ大量の良質素材を厳選して使うわけですんで。そして、それを実際やってる料亭が京都の本物ですから。
そして、京都に住んでいる子供たちは、こうした板前さんたちの協力により、公共教育で食育がしっかりなされているので、かなり舌が肥えてますよ。
給食も手作りにこだわり、その場で作ることにこだわり、素材も京都ならではのもの、京都ならではの伝統おばんざいを出すことにこだわっていて、子供たちは給食の味わいについて、きょうだいでその日のメニューの感動を語り合うくらいのクオリティなんですよ。東京の公立で、子供が給食が美味しいと言ったのを聞いたことがありません。
そんなわけなんで、観光客がわざわざ雑多な小さな店に訪れるのは大変としても、そこで食べるしかないような本当に美味しい隠れた名店が京都にはたくさんあるのに、自分の地域でも食べられるレベルの味わいしかない観光スポット行って、これが京都か、と満足して帰ってくるのは、はたから見ていて、勿体無いんですよね。
そもそもそういう京都の名店というのは、やっていける規模が決まっていて、初代から守り続けた信念や技能を受け継ぎながら、小さくとも安定的に長く続けるを目指しています。(東山の店が、他所からの客を受け入れる龍高星・禄存星的であるというならば、洛中の店は、京都内部の客専門の玉堂星と司禄星的ですね。)
別に全国展開したいわけではないし、その地域でずっとご贔屓にしてくれているお客様をずっとつなげて末長く生活していきたいというのが根本的な経営方針ですので、マスコミの注目を浴びすぎて、一時的に一見さんがガンガンきちゃって荒らされたり、それまでのご贔屓のお客さんが利用できなくなるようなことまではしたくはない。だから、自ら派手に発信・宣伝して目立とうということもないんです。
だから両方の視点で京都の内側から見てると、本当の京都を味わいたいなら、観光客がわの意識が変わらないとまず難しいな、と。
他の都市の観光の仕方と違うところは、京都人の生活の営みを壊さないなかで、伝統の知恵を分けていただくとか教えていただくような姿勢を保つことが大事なんじゃないかと思うんですよね。
京都人は、文化土壌が違うので、他県民たちより遥かに教養体験の厚みを持ってますので、なににおいても基本的に目利きです。(京都市と公教育がそれだけの教養体験をどの子にも提供している。)そして、京都には普通のお客さんの風貌で、各界の著名人がふらりと訪れることが多いですんで、有名な政治家や女優だからって、妙に有難がったり、下手に出ることもありません。
つまり、京都人は基本的に、目の前の人間・お客さんがどういう人なのか、中身の方をしっかり見ています。
だから、よくある地方都市伝説のように、京都人にいけずされた、とか、京都人に店先で追い払われる体験をしたとしたら、「あなたには文化理解がない」とか「相互交流の教養がない」とか、「まだまだ私たちの大切にしているものに触れる領域に達していない方だ」と暗に京都人に判断されたということを意味しているなぁって、私たちはやりとりを眺めていて、そう気がつきました。(しかし、京都人は他県民に面と向かって、基本、そういうことを口にしません。)
とにかく人の流動性が少ない京都の暮らしの中では、古くからの人脈でつながる街なので、信頼の置けないおかしな人間とのつながりを持っていると思われると自分の信用力も一緒に落としてしまいます。
だからこそ、相手の一貫性を見るし、慎重に人付き合いをしようとする世界なんですよね。それが京都人がある目線からすると、排他的に見えてしまう理由なんじゃないかと思います。
実際の京都人は、非常に気ィ使いいな人たちです。ネットで悪口が書かれているのを見たり、外に出た京都出身の若い人たちが、「あんたやっぱり京都人やね」とか叩かれる話を聞くと、心が痛みます。
京都人は、むしろ、周りのことを考えすぎて、察し合い、深読みしすぎてしまうが故に、小さなストレスをコツコツ溜めてしまう人たちだと思います。
京都ウォッチャーとしては、京都人の粋に痺れ、情にほろりとさせられ、賢さに唸らされ、まぁとにかく、非常に素敵で愛らしい観察対象なんですけどね、京都人本人たちは、謙虚に自己否定したりして.....そして、あ〜そこも、めっちゃ日本人っぽいなぁ〜と自分は思うわけです。w
それがわかってると京都は本当に面白いところですし、観光でストレス溜めまくった京都人に出会い、いきなりいけずされることもまずないと思います。
どっちかというと、京都駅近辺は元々京都のスラム街なので、そこらへんの柄が悪くて、京都人=いけずだと思うと、全く違う、っていうことは言っておきましょう。
なんにせよそういう意味で、本当の京都を味あわずに帰ってしまう観光客がほとんどで、本当に勿体無い!です。
京都人への正しい理解があれば、京都の見え方が全然変わるんですけどね。
他県には昭和の京都の保守のイメージがまことしやかに伝わっているけど、今の京都は、元々知的好奇心が高いので、新しいものに寛容ですよ。
京都の話になると、京都人をディスる話がやたら出てくるので、なんだかなぁと思い、こういう話になってしまいました。