悩みとは「信」である 信じているものを疑えたとき、苦しみはほどけ始める

悩みとは「信」である 信じているものを疑えたとき、苦しみはほどけ始める

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コラム
前回に引き続き、「信じること」の危うさについて考えてみたいと思います。

信じることは、美しいものとして語られることが多い言葉です。

人を信じる。
未来を信じる。
自分を信じる。
夢が叶うと信じる。

もちろん、それによって人が勇気づけられることもあります。
信頼が人を支えることもあります。

しかし一方で、信じることは時に、人から理性を奪います。

考えることをやめさせます。
疑うことを悪いことのように感じさせます。
検証する力を鈍らせます。
そして、誤った判断へ人を導くことがあります。

仏教の説話に、アングリマーラの話があります。

アングリマーラは、もとは「人を傷つけない者」を意味するアヒンサカという名の青年でした。

聡明で、素行もよく、高名な師のもとで学び、優秀な成績を収めていたとされています。
そのため、師からも特に目をかけられていました。

しかし、その優秀さを妬んだ周囲の者たちが、彼について嘘を吹き込みます。

アヒンサカが師を裏切っている。
師に対して不誠実なことをしている。

そうした偽りによって、師とアヒンサカの関係は壊れていきました。

伝承によって細部は異なりますが、師は彼を憎むようになり、自ら手を下さずに破滅させようと考えたとされています。

そして、修行を完成させるための最後の課題として、アヒンサカに命じます。

「千人の人間から指を集めて差し出せ」

本来、アヒンサカは殺生を好む人物ではありませんでした。
むしろ、真面目で、素直で、師を深く敬う青年でした。

しかし、その素直さゆえに、師の言葉を絶対視してしまいます。

師が言うのだから正しい。
修行の完成には必要なのだ。
自分は従うべきなのだ。

そう思い込んだ結果、彼は森で旅人を襲うようになります。

人数を数えるために奪った指をつなぎ、首飾りのように身につけたことから、彼は「指の首飾りを持つ者」、アングリマーラと呼ばれるようになりました。

ここで見るべきなのは、アングリマーラが最初から邪悪な人物だったという単純な話ではありません。

むしろ、恐ろしいのは逆です。

心優しく、真面目で、素直で、師を敬う青年であっても、条件がそろえば道を誤るということです。

信仰。
無条件な信頼。
権威への服従。
何かに傾倒しすぎる心。

それらは、時に判断を鈍らせます。

誤った判断は、誤った思考を生みます。
誤った思考は、誤った行動につながります。
そして行動は、必ず結果をもたらします。

原因と結果の法則は、気持ちの善悪によって都合よく変わってはくれません。

どれほど本人が真面目でも、
どれほど本人が素直でも、
どれほど本人が師を敬っていても、
無知を原因として起こした行動は、その結果を生みます。

ここに仏教の厳しさがあります。

行いの良し悪しは、心の良し悪しと必ずしも一致しません。

「悪気はなかった」
「信じていただけだった」
「自分は正しいと思っていた」
「相手のためだと思っていた」

そうであっても、行動の結果は生じます。

人は、縁さえそろえば何でもします。

穏やかな人でも、追い詰められれば怒ります。
優しい人でも、思い込みが強くなれば人を傷つけます。
真面目な人でも、権威を信じすぎれば誤った行動を取ります。
正義感のある人でも、自分の正しさに酔えば攻撃的になります。

問題は、「私はそんなことをしない」と信じることではありません。

その状況になった時、自分もまた誤る可能性があると知ることです。

欲と無知が判断を鈍らせます。

欲とは、ただ物を欲しがることだけではありません。

認められたい。
正しいと思われたい。
救われたい。
安心したい。
師に認められたい。
誰かに必要とされたい。
失敗したくない。
自分の価値を守りたい。

こうした心も、欲です。

無知とは、物を知らないことだけではありません。

自分が何を信じているのか分からない。
なぜそう判断しているのか分からない。
それが事実なのか、願望なのか分からない。
自分の都合のよい解釈に気づかない。

これが無知です。

欲と無知が重なると、人は信じたいものを信じます。

そして、信じたものを守るために、現実を曲げて見ます。

アングリマーラの話で言えば、本来なら検証すべきでした。

千人の人間を手にかけることが、なぜ修行の完成になるのか。
それは本当に善い行いなのか。
師の命令であれば、何でも従うべきなのか。
その教えは、苦しみを減らすものなのか。
それとも、苦しみを生むものなのか。

もし冷静に検証していれば、そこに道理がないことに気づけたかもしれません。

しかし、信じる心が強すぎると、人は検証をやめます。

師が言うのだから。
自分が信じた人だから。
これまで教えてくれた人だから。
この道を進めば救われるはずだから。

そうして、考えることを放棄してしまいます。

仏教が語りかけてくるのは、ここです。

信じるな。
検証せよ。

これは冷たい言葉ではありません。
むしろ、人を本当に苦しみから遠ざけるための厳しい慈悲だと思います。

なぜなら、私たちは驚くほど簡単に、自分に都合のよいものを信じるからです。

聞きたいことは信じる。
聞きたくないことは疑う。
安心できる言葉は信じる。
耳の痛い言葉は拒む。
自分を正当化してくれる人は信じる。
自分の問題点を指摘する人は敵に見える。

これが人間です。

そして、悩みもまた、この「信じること」から生まれます。

理想の自分を信じれば、今の自分が悩みになります。

本来の自分はもっとできるはずだ。
私はこんな場所にいる人間ではないはずだ。
もっと評価されるべきはずだ。
もっと愛されるべきはずだ。

そう信じるほど、現実の自分との落差に苦しみます。

自分の価値を信じれば、評価に悩みます。

私は価値ある人間でありたい。
認められたい。
軽く扱われたくない。
否定されたくない。

そう信じるほど、他人の言葉や態度が、自分の価値を決めるもののように見えてきます。

変わらない自分がいると信じれば、老いが悩みになります。

昔はできたのに。
前はもっと元気だったのに。
若い頃の自分はこうだったのに。
こんな自分は自分ではない。

そう信じるほど、変化そのものが苦しみになります。

自分が死ぬはずがないように信じていれば、病が悩みになります。

本当は誰もが老い、病み、死に向かっています。
それは避けられない現実です。

しかし、普段の私たちはどこかで、自分だけはまだ大丈夫だと思っています。
死は遠くにあり、病は他人事であり、老いはまだ先の話だと感じています。

だからこそ、病や衰えが現実として現れた時、強い衝撃を受けます。

「こんなはずではなかった」
「本来はこうあるべきだった」
「なぜ自分が」
「まだ大丈夫だと思っていたのに」

この苦しみの根にあるのは、現実ではなく、現実と食い違った「信」です。

悩みとは、信である。

そう言えるかもしれません。

私はこうあるべきだと信じている。
相手はこうしてくれるはずだと信じている。
人生はこう進むべきだと信じている。
自分にはこれだけの価値があると信じている。
自分だけはひどい目に遭わないと信じている。
努力は必ず報われると信じている。
愛した人は裏切らないと信じている。
家族なら分かってくれるはずだと信じている。
職場なら正当に評価してくれるはずだと信じている。

その信が現実とぶつかった時、苦しみが生まれます。

もちろん、願いを持つなという話ではありません。
希望を持つなという話でもありません。
人を信頼するなという話でもありません。

問題は、それを検証せずに絶対視することです。

本当にそうなのか。
何を根拠にそう思っているのか。
それは事実なのか、期待なのか。
自分に都合よく見ていないか。
その信を守るために、現実を見ないようにしていないか。

この問いが必要です。

しかし、これができる人は多くありません。

なぜなら、自分の信じているものを疑うことは、自分自身を揺るがすように感じるからです。

自分の価値。
自分の正しさ。
自分の理想。
自分の努力。
自分の愛情。
自分の人生観。

それらを疑うことは、とても怖いことです。

だから人は、信じたまま苦しむ方を選びます。

相手が悪い。
環境が悪い。
運が悪い。
時代が悪い。
誰も分かってくれない。
自分だけが報われない。

そう思う方が、自分の信じてきたものを守れます。

しかし、それでは苦しみの根には触れられません。

仏教は、そこを容赦なく見ます。

検証せよ。

あなたが信じているものは、本当に事実なのか。
あなたの悩みは、本当に悩むに値するものなのか。
あなたを苦しめているのは現実なのか。
それとも、現実に対してあなたが握っている信なのか。

この問いを持つことです。

たとえば、人間関係で悩んでいる時。

「相手は私を分かってくれるべきだ」
と信じていないでしょうか。

「私の気持ちは理解されるべきだ」
と信じていないでしょうか。

「大切にしている相手なら、私を傷つけないはずだ」
と信じていないでしょうか。

その信が破られた時、怒りや悲しみが生まれます。

仕事で悩んでいる時。

「努力していれば評価されるはずだ」
「真面目にやっていれば報われるはずだ」
「自分はもっと認められるべきだ」

そう信じていないでしょうか。

もしそうなら、苦しみの原因は評価そのものではなく、その信と現実のズレにあるかもしれません。

自分自身に悩んでいる時。

「本当の私はもっとできるはずだ」
「自分はこうでなければならない」
「失敗する自分には価値がない」
「人に嫌われる自分はダメだ」

そう信じていないでしょうか。

その信が、自分を追い詰めているかもしれません。

信じることが危ういのは、それが人にとって甘いからです。

信じていれば、考えなくて済みます。
信じていれば、不確かさに向き合わなくて済みます。
信じていれば、自分の欲や無知を見なくて済みます。
信じていれば、現実よりも理想の中にいられます。

しかし、現実は信じた通りには動きません。

原因と結果によって動きます。

行動があり、条件があり、縁があり、結果が生まれます。

だから、良い結果を望むなら、信じるだけでは足りません。

結果を生む原因を作る必要があります。
条件を整える必要があります。
誤った見方を修正する必要があります。
自分に都合のよい期待を手放す必要があります。
現実を検証する必要があります。

これは地味です。
耳に心地よくありません。
しかし、悩みを根から見るためには必要です。

あなたが今抱えている悩みの根には、どんな信があるでしょうか。

自分はこうあるべき。
相手はこうしてくれるべき。
人生はこう進むべき。
自分はもっと評価されるべき。
この苦しみは自分だけのもの。
今の自分は本来の自分ではない。
いつか何かが変われば救われる。

その一つひとつを検証していくと、悩みの形が変わることがあります。

問題だと思っていたものが、実は期待だった。
相手への怒りだと思っていたものが、実は自分の願望だった。
自己否定だと思っていたものが、実は理想の自分への執着だった。
不安だと思っていたものが、実は変わらない未来を信じたい心だった。

信を見抜けば、苦しみは少しほどけます。

なぜなら、苦しみの正体が、現実そのものではなく、自分が握っていた見方だと分かるからです。

もし、自分の悩みの根本が何なのか。
自分は何を信じて苦しんでいるのか。
その信は本当に事実なのか。

一緒に紐解きたい方は、ぜひご相談ください。

仏教の智慧と理性的な問いかけをもとに、今の悩みを静かに見つめていきます。


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