息ができない
オンラインの画面に映るクライエントの顔は青白く、目の下には深いクマができていた。画面越しでも、彼女の呼吸が浅く速いことが分かる。
クライエント「すみません...ちょっと、落ち着かなくて...」
彼女は何度も深呼吸を試みるが、うまく息を吸えていないように見えた。
ダイキ「大丈夫ですよ。今、どんな感じですか?」
クライエント「なんか...胸が苦しくて。動悸がするんです。さっきから」
彼女の手が震えている。画面を通してでも、その緊張が伝わってくる。
ダイキ「分かりました。まず、少しだけ一緒に呼吸を整えましょうか。今から私が数を数えますので、それに合わせて息を吸って、吐いて。できそうですか?」
クライエントは小さく頷いた。
ダイキ「では、1、2、3、4で息を吸って...1、2、3、4、5、6で吐いて。もう一度...」
3回ほど繰り返すと、彼女の肩の力が少しだけ抜けた。
クライエント「...少し、楽になりました」
ダイキ「良かったです。今日はどうされましたか?」
クライエント「実は...2週間前に、突然別れを告げられて」
そう言うと、彼女の目に涙が浮かんだ。
突然の別れ
クライエント「3年以上付き合っていたんです。結婚の話も出ていて。それなのに、突然...」
彼女は言葉を詰まらせた。
ダイキ「突然、だったんですね」
クライエント「はい。何の前触れもなく。『もう無理だ』って。理由を聞いても、『分からない、ただもう無理なんだ』って繰り返すだけで...」
ダイキ「...それは、とても辛い状況ですね」
クライエント「それから、ずっとこの状態なんです。夜も眠れないし、食事も喉を通らなくて。仕事中も突然涙が出てきたり、動悸がしたり...」
彼女は両手で顔を覆った。
クライエント「もう、どうしていいか分からないんです。このまま壊れてしまいそうで...怖いんです」
脳が警報を鳴らしている
ダイキ「今、心臓がドキドキしたり、息が苦しくなったりするのは、どんな時ですか?」
クライエント「...彼のことを思い出した時、とか。あと、特に何もしてなくても、突然来るんです」
ダイキ「突然来る、んですね」
クライエント「はい。さっきまで普通だったのに、急に胸が苦しくなって、このまま死んでしまうんじゃないかって...」
彼女の声が震えている。
ダイキ「それは本当に苦しいですね。実は、今起きていることには、ちゃんと理由があるんです」
クライエント「...理由、ですか?」
ダイキ「はい。まず知っておいてほしいのは、これは決してあなたがおかしくなっているわけではない、ということです」
クライエントは少し驚いた表情で、ダイキを見つめた。
ダイキ「今起きているのは、脳が『危険だ』という警報を鳴らし続けている状態なんです」
クライエント「警報...?」
ダイキ「そうです。人間の脳にとって、大切な人との別れは、生存に関わる危機として認識されるんです」
恋愛と脳のメカニズム
ダイキ「少し専門的な話になりますが、聞いてみますか?」
クライエント「はい...知りたいです」
ダイキ「恋愛しているとき、脳の中では『ドーパミン』という物質がたくさん出ています。これは、快感や報酬を感じる物質なんです」
クライエント「はい」
ダイキ「でも、突然その関係が終わると、脳は混乱するんです。『なぜ報酬が得られないんだ?』『どうすれば取り戻せるんだ?』って」
クライエント「...だから、こんなに苦しいんでしょうか」
ダイキ「そうです。脳は、失った関係を取り戻そうとして、警報を鳴らし続けるんです。それが、動悸や息苦しさ、不眠として現れる」
彼女は何度も頷きながら、ダイキの言葉を聞いていた。
ダイキ「さらに、人間の祖先は集団で生活していました。だから、大切な人との繋がりを失うことは、生き残れないという恐怖に直結していたんです」
クライエント「原始時代の名残、みたいな...?」
ダイキ「そういうことです。だから、あなたの体が『危険だ!』『なんとかしなきゃ!』って反応するのは、ある意味、正常な反応なんです」
クライエントの表情が少しだけ和らいだ。
クライエント「...おかしくなってるんじゃないんですね」
ダイキ「はい。でも、だからといって、この苦しさを我慢し続ける必要はありません」
呼吸が鍵になる
ダイキ「今日、最初に一緒に呼吸を整えましたよね」
クライエント「はい」
ダイキ「あれ、少し楽になりませんでしたか?」
クライエント「なりました。不思議なくらい」
ダイキ「実は、呼吸は脳の警報システムをコントロールできる数少ない方法の一つなんです」
クライエント「本当ですか?」
ダイキ「はい。パニック状態のとき、呼吸は浅く速くなります。でも、意識的にゆっくり深い呼吸をすると、脳に『大丈夫だよ』という信号が送られるんです」
クライエント「へえ...」
ダイキ「具体的には、1分間に4回から6回くらいのペースで呼吸すると、効果が高いと言われています」
クライエント「4回から6回...?」
ダイキ「そうです。10秒から15秒で1回の呼吸。ゆっくり息を吐くことに集中するといいですよ」
彼女はメモを取り始めた。
ダイキ「動悸がしたり、息苦しくなったりしたら、まずこの呼吸を試してみてください」
小さな実践の積み重ね
クライエント「でも...それだけで、本当に良くなるんでしょうか」
彼女の声には、まだ不安が残っている。
ダイキ「それだけ、というよりは、それが最初の一歩になります」
クライエント「一歩...」
ダイキ「今、脳は警報を鳴らし続けていて、体は緊張状態が続いています。まずは、その緊張を少しずつ緩めていくことが大切なんです」
ダイキ「呼吸の他にも、いくつか方法があります。たとえば、5分でいいので外に出て、緑のある場所を歩く。これだけでも、脳はリラックスします」
クライエント「5分...それくらいならできそうです」
ダイキ「あと、夜19時以降は、スマホやパソコンの画面を見ないようにする。刺激的な情報を避けることも大切です」
クライエント「ああ...私、ずっとスマホ見てました。彼のSNSとか...」
彼女は顔を伏せた。
ダイキ「それも、脳をさらに緊張させてしまうんです」
感情を否定しない
クライエント「でも...泣いてばかりいる自分も、情けなくて」
ダイキ「泣くことは、悪いことじゃないですよ」
クライエント「え...?」
ダイキ「涙は、体がストレスを外に出そうとしている反応なんです。我慢する必要はありません」
クライエント「でも、仕事中に泣いたりして...周りの目も気になるし」
ダイキ「そうですね。周りの目が気になる気持ちは分かります。でも、一人の時は、思い切り泣いていいんです」
彼女の目に、また涙が溢れた。
ダイキ「今も、泣きたければ泣いて大丈夫ですよ」
クライエント「...すみません」
彼女は涙を拭おうとするが、止まらない。
ダイキは静かに待った。
しばらくして、彼女の涙が少しずつ落ち着いてきた。
クライエント「...少し、楽になりました」
ダイキ「良かったです」
時間が必要だということ
クライエント「これって...いつまで続くんでしょうか」
ダイキ「それは、人によって違います。でも、永遠には続きません」
クライエント「...そうですよね」
ダイキ「今は、脳が混乱している状態です。でも、時間をかけて、少しずつ新しい状態に適応していきます」
クライエント「どのくらい...かかりますか?」
ダイキ「はっきりとは言えませんが、数週間から数ヶ月という方が多いです」
クライエントは少し驚いた表情を見せた。
クライエント「そんなに...」
ダイキ「ただ、日に日に楽になっていきます。今日より明日、明日より来週、という感じで」
クライエント「...そうなんですね」
ダイキ「大切なのは、自分を責めないこと。そして、小さなことから実践していくことです」
具体的な実践計画
ダイキ「では、今日から試せることを整理しましょうか」
クライエント「はい」
ダイキ「まず、動悸や息苦しさを感じたら?」
クライエント「ゆっくり呼吸する。10秒から15秒で1回」
ダイキ「そうです。それから?」
クライエント「1日5分でいいから、外に出て歩く」
ダイキ「はい。あと、夜は?」
クライエント「19時以降は、スマホやパソコンを見ない」
ダイキ「素晴らしいです。特に、彼のSNSは見ないこと」
クライエント「...はい。それは、やめます」
彼女の声に、少しだけ決意が感じられた。
ダイキ「あと、もう一つ。瞑想も試してみませんか?」
クライエント「瞑想...難しそうですけど」
ダイキ「簡単な方法があります。朝起きたら、5分でいいので、椅子に座って目を閉じて、呼吸に意識を向けるだけです」
クライエント「それだけですか?」
ダイキ「それだけです。『吸って、吐いて』と心の中で言いながら、呼吸を感じる。他のことを考え始めたら、また呼吸に意識を戻す」
クライエント「...できそうです」
一人じゃないということ
ダイキ「最後に一つ。困ったときは、誰かに話してください」
クライエント「...誰かに、ですか」
ダイキ「はい。友人でも、家族でも、カウンセラーでも。一人で抱え込まないでください」
クライエント「でも...みんな忙しいし、迷惑かけたくなくて」
ダイキ「それは、相手が決めることです。あなたが決めることじゃありません」
彼女は少し考え込んだ。
ダイキ「人は、思っているより、誰かの力になりたいと思っているものですよ」
クライエント「...そうかもしれませんね」
ダイキ「それに、話すことで、自分の気持ちが整理されることもあります」
クライエント「はい...友達に、連絡してみます」
小さな変化
セッションが終わろうとしていた。
クライエント「今日、来て良かったです」
彼女の表情は、最初に比べると少しだけ明るくなっていた。
ダイキ「どうですか、今の気持ちは?」
クライエント「まだ不安はあります。でも...なんだろう、少しだけホッとしました」
ダイキ「それは良かったです」
クライエント「自分がおかしくなってるんじゃないって分かって。これが普通の反応なんだって」
ダイキ「そうです。あなたの体は、とても正直に反応しているだけです」
クライエント「...ありがとうございます」
彼女は深く頷いた。
ダイキ「また、いつでも連絡してくださいね」
クライエント「はい。明日から、教えてもらったこと、やってみます」
その後
2週間後、彼女から連絡があった。
「少しずつですが、良くなってきました。呼吸法、本当に効果がありますね。パニックになりそうな時も、落ち着けるようになってきました」
さらに1ヶ月後。
「まだ完全ではありませんが、仕事も普通にできるようになりました。友達にも話せて、それがすごく支えになっています」
失恋の痛みは、すぐには消えない。
でも、その痛みとどう付き合うかは、選ぶことができる。
彼女は、少しずつ、自分の人生を取り戻していった。