実家に戻ってからの違和感
カウンセリングルームに入ってきたユカリさんは、少し疲れた様子だった。椅子に座ると、小さく息を吐いた。
ユカリ「すみません、今日も愚痴みたいになっちゃうかもしれないです」
ダイキ「いえ、大丈夫ですよ。どうぞゆっくり話してください」
ユカリさんは少し間を置いてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
ユカリ「実家に戻って3ヶ月くらいになるんですけど...最近、親との関係がすごくしんどくて」
ダイキ「しんどい、ですか」
ユカリ「はい。特に母親なんですけど、なんていうか...会話が全部トゲトゲしてるんです」
彼女は自分の膝の上で手を組んだ。その手に少し力が入っているのが見えた。
ユカリ「朝起きたら『今日は何するの?』って聞かれて。夕方家にいたら『まだ出かけないの?』とか。別に責めてるわけじゃないのかもしれないけど...でも、私には全部『いつまで無職でいるつもりなの』って聞こえちゃって」
ダイキ「お母さんの言葉が、責められているように感じるんですね」
ユカリ「そうなんです。だから、最近はなるべく顔を合わせないようにしてて...朝は両親が出かけてから起きるようにしたり、夜も部屋にこもっちゃったり」
彼女の声が少し小さくなった。
言えない本音
ダイキ「ご両親との会話は減ってるんですか?」
ユカリ「はい。もう、必要最低限しか話してないです。話すとイライラしちゃうし、私が感情的になると余計に関係が悪くなるから」
ダイキ「感情的に、というのは?」
ユカリ「...この前、母に『あんたは何がしたいの?』って聞かれて。それで、つい『わかんないから困ってるんでしょ!』って怒鳴っちゃって」
彼女は目を伏せた。
ユカリ「その後、気まずくなって...。母は黙っちゃうし、私も部屋に戻って。それから、お互いもっと話さなくなりました」
ダイキ「その時、どんな気持ちでしたか?」
ユカリ「...怒りと、あと罪悪感、ですかね。怒鳴った自分も嫌だったし、母を傷つけたかもって思うと申し訳なくて。でも同時に『わかってくれない』っていう苛立ちもあって」
ダイキ「いろんな感情が混ざってたんですね」
ユカリ「はい...。あと、父親は何も言わないんです。ただ黙って見てるだけで。それもなんか、プレッシャーなんですよね」
「無職の自分」への視線
ダイキ「ユカリさんは、ご両親が今のユカリさんをどう見てると思いますか?」
少し間があった。ユカリさんは天井を見上げて、考えるように唇を噛んだ。
ユカリ「...多分、『情けない娘』だと思ってると思います」
ダイキ「情けない、ですか」
ユカリ「だって、そうじゃないですか。30過ぎて無職で、実家に戻ってきて。毎日家でゴロゴロしてるように見えるし。親からしたら、『この子、大丈夫なの?』って心配してるか、『いつまで甘えてるの?』って呆れてるか、どっちかだと思うんです」
ダイキ「ユカリさんは、そう見られてると感じてるんですね」
ユカリ「感じてます。だって、母の目とか...なんていうか、心配してるっていうより、失望してる感じがするんです」
彼女の声が震えた。
ユカリ「私も、こんなつもりじゃなかったんですよ。ちゃんと働いて、自立して、親を安心させられる娘でいたかった。でも、もう限界で...辞めるしかなくて」
ダイキ「限界だったんですね」
ユカリ「はい。でも、それを親には言えなくて。『辞めたい』って相談したときも、『もう少し頑張ってみたら?』って言われて。結局、相談せずに辞めちゃいました」
伝えられなかった理由
ダイキ「相談せずに辞めた、というのは?」
ユカリ「退職の話をちゃんとする前に、もう退職届出しちゃったんです。で、辞めてから『実は辞めた』って報告して」
ダイキ「どうして、事前に話せなかったんでしょう?」
ユカリさんは少し考えてから答えた。
ユカリ「...反対されるのが怖かったんだと思います。『辞めるな』って言われたら、説得できる自信もなかったし。でも、もう心が限界だったから...黙って辞めるしかなかったんです」
ダイキ「反対されたら、辞められないと思ったんですね」
ユカリ「そうです。親に認めてもらえないと、決断できないっていうか...。でも結局、黙って辞めたことで、余計に信頼を失った気がして」
彼女の目に涙が浮かんだ。
ユカリ「母に『どうしてちゃんと相談しなかったの』って言われて。それも、責められてるように聞こえて...」
ダイキ「お母さんとしては、心配だったのかもしれませんね」
ユカリ「そうなのかもしれないです。でも、私には責められてるとしか思えなくて。『相談してたって、どうせ反対するでしょ』って思っちゃって」
期待と現実のズレ
ダイキ「ユカリさんは、ご両親にどう思ってもらいたいですか?」
ユカリ「...わかってほしい、です。今、私がすごく疲れてて、休む必要があるってこと。でも、それを言っても『若いんだから大丈夫でしょ』とか『みんな我慢してるのよ』とか言われそうで」
ダイキ「言われそう、というのは、実際に言われたんですか?」
ユカリ「いえ...でも、きっとそう思ってるはずです。だって、母は昔から『頑張りなさい』っていうタイプだったし」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「ユカリさんの中で、お母さんはどんな人ですか?」
ユカリ「厳しい人、ですかね。でも、悪い人じゃないんです。ちゃんと育ててくれたし、感謝もしてます。ただ...私のこと、わかってくれないんです」
ダイキ「わかってくれない、というのは?」
ユカリ「私が疲れてるとか、しんどいとか、そういうのを『甘え』だと思ってる気がして。母の時代は、もっと大変だったのに頑張ってきたから、私が『疲れた』なんて言っても理解できないんだと思います」
孤独の中で
ダイキ「今、ユカリさんは誰かに本音を話せてますか?」
ユカリさんは首を横に振った。
ユカリ「話せる人、いないです。友達とも、退職してから連絡取ってなくて」
ダイキ「どうして連絡を取らなくなったんですか?」
ユカリ「...なんて言えばいいかわからなくて。『無職になった』って言ったら、『何してるの?』とか『次はどうするの?』とか聞かれるじゃないですか。それに答えられる自信がなくて」
彼女は俯いた。
ユカリ「みんな、ちゃんと働いてて、結婚してる子もいて。私だけ、何もかもうまくいってない気がして。会いたくないんです」
ダイキ「一人で抱え込んでるんですね」
ユカリ「はい...。でも、誰にも話せないから、どんどん辛くなってきて。最近は、朝起きるのも嫌で、何もしたくなくて」
ダイキ「今、どんな一日を過ごしてますか?」
ユカリ「...ほとんど部屋にいます。求人サイトを見たり、資格の勉強しようとしたり。でも、集中できなくて。結局、スマホ見て時間が過ぎて」
彼女の声が小さくなった。
ユカリ「こんな自分が、本当に情けなくて」
「情けない」の正体
ダイキ「ユカリさんにとって、『情けない』って、どういう状態ですか?」
ユカリ「え...?」
ダイキ「どうなったら、情けなくないんでしょう?」
ユカリさんは少し考えた。
ユカリ「...ちゃんと働いてること、ですかね。自分で稼いで、親に頼らず生活できてる状態」
ダイキ「それができたら、情けなくないんですね」
ユカリ「はい。でも、今はそれができてないから...」
ダイキ「今は、できてない。じゃあ、3ヶ月前のユカリさんは、どうでしたか?」
ユカリ「3ヶ月前...? あ、働いてました」
ダイキ「働いてましたね。その時、情けなくなかったですか?」
ユカリさんは少し黙った。
ユカリ「...いえ、情けなかったです。仕事がうまくいってなかったし、毎日怒られてばっかりで」
ダイキ「じゃあ、働いていても、情けないと感じてたんですね」
ユカリ「...そう、ですね」
少しずつ、彼女の表情が変わっていった。
ダイキ「ということは、『働いていること』と『情けなくないこと』は、必ずしもイコールじゃないかもしれませんね」
ユカリ「...そうかもしれないです」
親の期待という重荷
ダイキ「ユカリさんは、ご両親にどう思われたいですか?」
ユカリ「...立派な娘だと思われたい、です。ちゃんとしてるって、安心してもらいたい」
ダイキ「立派、というのは?」
ユカリ「しっかり働いて、結婚もして、親を安心させられる娘。それが、立派な娘だと思ってます」
ダイキ「それは、ユカリさんがそう思ってるんですか? それとも、ご両親がそう思ってると感じてるんですか?」
ユカリさんは言葉に詰まった。
ユカリ「...どっちなんでしょう。わからなくなってきました」
ダイキ「わからなくなってきた」
ユカリ「そうです。私が勝手に、親がそう思ってるって決めつけてるだけなのかも...。でも、母の態度とか、言葉とか聞いてたら、そう思わざるを得なくて」
ダイキ「お母さんに、直接『私のことどう思ってるの?』って聞いたことはありますか?」
ユカリ「...ないです。怖くて聞けません」
ダイキ「何が怖いんでしょう?」
ユカリさんは少し震える声で答えた。
ユカリ「...『がっかりした』って言われるのが怖いです」
彼女の目から、涙が一筋流れた。
本当に恐れていること
ダイキは静かに待った。ユカリさんは涙を拭いながら、続けた。
ユカリ「私、ずっと母に認められたくて。いい成績取ったり、いい会社に入ったり。全部、母に『よくやった』って言ってもらいたくてやってきたんです」
ダイキ「お母さんに認められることが、大事だったんですね」
ユカリ「はい。でも、仕事辞めちゃって...もう、認めてもらえることなんてないんじゃないかって」
ダイキ「認めてもらえないと、どうなりますか?」
ユカリ「...私、価値がないんじゃないかって思っちゃいます」
その言葉を口にした瞬間、ユカリさんは泣き崩れた。
ユカリ「母に認められないと、私って何の価値もないんじゃないかって...」
ダイキはティッシュを差し出した。しばらく、ユカリさんの泣き声だけがカウンセリングルームに響いた。
少し落ち着いてから、ダイキは静かに尋ねた。
ダイキ「ユカリさん、一つ聞いていいですか?」
ユカリ「...はい」
ダイキ「ユカリさんの価値は、お母さんが決めるものなんですか?」
ユカリさんは顔を上げた。
ユカリ「え...?」
ダイキ「お母さんが『価値がある』と言えば価値があって、『価値がない』と言えば価値がないんでしょうか?」
ユカリ「...わからないです」
ダイキ「じゃあ、もう一つ聞きます。ユカリさん自身は、自分に価値があると思いますか?」
ユカリさんは長い間黙っていた。そして、小さな声で答えた。
ユカリ「...わからないです。でも、多分、ないと思ってます」
ダイキ「ない、と思ってるんですね」
少しずつ見えてきたもの
ダイキ「今日のお話を聞いていて思ったんですが、ユカリさんは『親との関係が悪化した』と言ってましたよね」
ユカリ「はい」
ダイキ「でも、もしかしたら、関係が悪化したんじゃなくて、今まで見えてなかったものが見えてきたのかもしれませんね」
ユカリ「...どういうことですか?」
ダイキ「働いてた時は、お母さんと毎日顔を合わせてましたか?」
ユカリ「いえ。朝早く出て、夜遅く帰ってたので、ほとんど会わなかったです」
ダイキ「今は?」
ユカリ「...毎日、顔を合わせます」
ダイキ「距離が近くなったから、お互いの本音が見えやすくなったのかもしれませんね」
ユカリさんは少し考えた。
ユカリ「...そうかもしれないです。前は、週末に会うくらいだったから、お互い『元気?』『元気だよ』くらいの会話で済んでて」
ダイキ「表面的なやりとりだったんですね」
ユカリ「はい。でも今は、ずっと一緒にいるから...隠せないんです」
ダイキ「何が隠せないんですか?」
ユカリ「...私が、しんどいってこと。毎日部屋にこもってること。何もできてないこと」
ダイキ「それを、お母さんに見られるのが辛いんですね」
ユカリ「はい...。ダメな自分を見せたくないんです」
完璧でなくてもいい
ダイキ「ユカリさん、一つ提案があるんですが」
ユカリ「はい」
ダイキ「お母さんに、『今、私はこういう状態です』って、正直に話してみるのはどうでしょう?」
ユカリ「え...でも、わかってもらえないと思います」
ダイキ「わかってもらえないかもしれません。でも、わかってもらえるかもしれません」
ユカリ「...」
ダイキ「今、ユカリさんは『きっとわかってもらえない』って決めつけて、話さないでいますよね。でも、話してみないと、本当のところはわからないんじゃないでしょうか」
ユカリ「でも、『甘えてる』って言われたら...」
ダイキ「言われたら、どうしますか?」
ユカリ「...傷つきます」
ダイキ「傷つきますよね。でも、今も傷ついてませんか?」
ユカリさんは黙った。
ダイキ「話さないでいても、お母さんの視線を感じて傷ついてる。だったら、一度話してみて、その反応を見てから考えてもいいんじゃないでしょうか」
ユカリ「...怖いです」
ダイキ「怖いですよね。でも、怖いまま避け続けると、関係はどんどん遠くなっていくかもしれません」
ユカリさんは目を閉じて、深く息を吸った。
ユカリ「...やってみます」
小さな一歩
次の週、ユカリさんが再びカウンセリングルームを訪れた。前回よりも、少し表情が明るかった。
ユカリ「先週、母と話しました」
ダイキ「話されたんですね。どうでしたか?」
ユカリ「思ってたより...優しかったです」
彼女は少し驚いたような顔をした。
ユカリ「『今、すごく疲れてて、休む必要がある』って正直に言ったら、母が『そうだったの』って」
ダイキ「お母さん、何て言ってました?」
ユカリ「『もっと早く言ってくれればよかったのに』って。『心配してたのよ』って」
ユカリさんの目に涙が浮かんだ。今度は、悲しみではなく、安堵の涙のように見えた。
ユカリ「母は、私のことを責めてたんじゃなくて、心配してたんだって。それを知って...なんか、ほっとしました」
ダイキ「よかったですね」
ユカリ「はい。でも、母も『何を話せばいいかわからなかった』って言ってて。お互い、気を遣いすぎてたのかもしれません」
ダイキ「気を遣いすぎて、距離ができてたんですね」
ユカリ「そうです。でも、話してみて、少し楽になりました」
ダイキ「これから、どうしていきたいですか?」
ユカリ「...まずは、ちゃんと休むことにします。焦らず、少しずつ、次を考えていこうって思います」
彼女は小さく笑った。
ユカリ「母も『焦らなくていいから』って言ってくれたんです」
対話の先に
カウンセリングの終わりに、ダイキは尋ねた。
ダイキ「今回のことで、何か気づいたことはありますか?」
ユカリさんは少し考えてから答えた。
ユカリ「...私、勝手に決めつけてたんだなって。母がどう思ってるかも、母がどう反応するかも、全部想像で決めてて。だから、話すのが怖かったんだと思います」
ダイキ「想像と現実は、違ってましたか?」
ユカリ「全然違いました。母は、私が思ってたより優しかったし、理解してくれようとしてました」
ダイキ「そうですか」
ユカリ「まだ、完全に関係が元に戻ったわけじゃないですけど...でも、少しずつ話せるようになってきた気がします」
ダイキ「それは大きな一歩ですね」
ユカリ「はい。ありがとうございました」
彼女は深く頭を下げた。