不条理の器として生きる-それでも人間は、静かに嫌われに行く

不条理の器として生きる-それでも人間は、静かに嫌われに行く

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コラム
嫌われることが、決して良いことだとは思いません。しかし、私たちの人生や仕事において、時には自ら進んで「嫌われ役」を引き受けなければならない瞬間があります。

誰かを支える現場に身を置いていると、言葉にできないほどの無念さに直面することがあります。目の前の人の前で、自分がいかに無力であるかを痛感させられるのです。頼みの綱である福祉サービスにも、社会を動かす政治の力にも、どうしても超えられない冷酷な限界が存在します。そうした救われない現実を前にしたとき、人は行き場のない怒りや悲しみを抱えます。誰かを「悪人」に仕立て上げなければ、どうしても自分の溜飲が下がらないというのも、また人間の切ない本質なのかもしれません。だからこそ、その割り切れない感情の矛先をあえて自分が引き受けるために、静かに嫌われに行かなければならないときがあるのです。

では、これから迎えるAIの時代、その「悪者」の役割を機械に肩代わりさせることはできるのでしょうか。

AIに指示をすれば、理不尽な現実の象徴として、冷徹なキャラクターを完璧に演じ切ることはできます。感情を持たないAIは、どれだけ怒りをぶつけられても傷つくことはありません。しかし、AIには心も自由意思もないという「無機質さ」を人間が悟ったとき、どこか決定的な虚しさが残ります。データと論理だけで「これが社会の限界です」と無下に告げられたとき、人間の心は救われないどころか、深い虚無へと突き落とされてしまいます。

そんな究極の無機質さに直面したとき、人間はどこへ向かうのでしょうか。

きっと人間は、論理だけで割り切れない不条理に「意味」を求め、宗教や超越的な存在への祈りへと回帰していくのでしょう。それと同時に、「欠点だらけで、話が通じなくて、でも自分のために一緒に頭を抱えてくれる」という、生身の人間が持つ不完全さや体温を激しく求めるようになるはずです。

そうして考えていくと、未来における生身のケア専門職の役割とは、やはり「不条理を受け止める役」に帰結するのではないかと思うのです。

AIが「綺麗で正しい解決策」や「効率的な諦め」を提示すればするほど、その裏側にこぼれ落ちる割り切れない不条理の密度は、かえって濃くなっていきます。そのとき、専門職としての全能感を捨て、一人の無力な人間として相手の痛みに共鳴すること。「私にもどうしようもない、本当に悔しい」と、答えのない苦しみの傍らにただ居続けること。それこそが、生身の人間だからこそ果たせる、最後の砦としての役割です。

効率化と論理が極まる世界だからこそ、理不尽な現実を前に一緒に立ち尽くし、傷つき、時にあえて身代わりの盾になる。そんな泥臭くも尊い営みの中にしか、人間の尊厳を救う道はないのかもしれません。

                       沙門蒼俊   合掌
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