人間は各々が良いと思っているものしか基本的には存在させたくないし、そうなるように生きている
ただその「良いと思う」というところが問題になるケースがある
他人の価値観を軸にしてしまっている場合だ
ちなみに他人の価値観を入れないというのはほぼ不可能だ
私たちは常に誰かと関わって生きている
この記事を読める環境にあるなら、少なくともインターネットには接続出来ていて、それにまつわる色々な他人の考え方に触れているし、他にもたくさんあるだろう。
そんな中でそれらに影響されないなんてのは不可能な話だ。
他人の価値観を軸にするのがなぜ良いものでないかは自明かと思うが、それは1人でごはん食べる時に箸の持ち方から食べる順番から噛む回数まで全部永遠に他人に決められるようなものだ。
もっと言えばトイレにいくタイミングややり方、行く場所とかも全部だ。そりゃ体おかしくなる。
例えば虐待を受けている子供は、親をかばうという話は散見されるものだが、そう言った時に子供は自分が悪いという方向に考えがちだとも言う。
そんなふうに他人からみたら「そんなわけないじゃん!」と思うことでも、長い年月と強い圧力で刷り込まれた情報は、そう簡単に覆るものではない。
そしてそうして刷り込まれた心の傷=自分に入り込んだ他人の価値観は、その後の判断にも大きく影響を与える。
そうした時に、明らかに自分のためにならないような選択を「良いもの」として認識してしまうのだ。
それが未来に対する恐れと絡まってきたりすると、なかなかに手がつけられない。
こうしたズレは、多かれ少なかれ、誰もが持っているものではないだろうか。
現状に不満を感じているがなかなか動けない…とかは、紐解いていくと大体この形になる。
ではいかにして他人の価値観と自分の価値観を混同しないか。
内観である。
ひたすらに、自分はどう思っているのか、どう感じているのか、なんの制約もないとしたらどうしたいのか、を感じ続けることだ。
いつも当たり前だと思っていたこと、口癖として言ってること、常識と感じていること、それらは本当にそうなのか?
誰かが言うからじゃない、自分がそう感じるかだ。
内観も技術だ。
技術なので、最初からやりましたーできましたーとはなかなかなりにくい。
楽器やスポーツと同じく、トライアンドエラーを繰り返して上手くなっていくものだ。
そしてまさしくそれと同じように、我流でやるより教えてもらった方が確実に上達は早い。
さらに同じように、教えてもらう人は自分に合う人でないと逆効果なこともある。
そこの選択含め、最終的には自分が全てを引き受ける覚悟というのがとても重要なものになる。
その覚悟があればこそ、ミスってもいちいち気にせず、おっけーはい次ーとなれるわけだ。
実際そのミスは必要で起きてるものだしね。
そんなわけで、地に足をつけて聖域のない総ざらいをするというのは、組織で語られがちだが、個人においても不可欠なことである。