※早速今日から以前書いたものを転載していくんだけど、初っ端おもてーかんじで笑ったw たった2ヶ月でこうも軽くなれるものだなぁと改めて感慨深いものがある。 今後こう言った注釈はつけないが、振り返ってどれだけ進んでいるかの確認を出来る機会を頂いたことに感謝する。
彼女と別れた。
今まで彼女とは毎日多くの時間を共有していた。
ゲームやYouTubeの時間が増えた。
おはようからおやすみまで、絶えず何かしらのコンテンツを消費し続けた。
その隙間に感じる時間・考える時間があった。
それでもとても辛く苦しい時間であったため、すぐに何かにエスケープしていた。
その中でYouTubeで、孤独を手放すなという趣旨の動画をみた。
また、何かに一週間本気で取り組んでみなよという動画もみた。
せっかく手に入れた孤独を、有効に活かさない手はないと感じた。
手癖のようにタップするYouTubeや漫画のアプリに利用制限をかけ、ゲームもすぐ起動できない状態にした。
ここまでかと思うほどの激しい禁断症状と共に、自分の中の感情が浮き彫りになってくる。
出てくるものは不安と飢えと寂しいだった。
自分の恋愛は、自分自身で担保できない自己の価値を、恋愛感情の共有によって担保するためのものであったように思う。
実際彼女とのやりとりを思い返すと、好きである事、好きでいてもらえる事によって自分の位置を確認して、それは自分が根底に持っている不安をなかった事にする目的があったと推測される。
それが悪いものとは言わないが、そちらに偏り過ぎるのは結果お互いのためにならないと過去何度も経験している。
ただしそういう方向性でない恋愛をした経験がないため、そうでない恋愛が存在するかは未だ不明。
それぞれが相手に依ることなく自己として確立していて、相互に尊敬と感謝と尊重を持ち、お互いの人生の目的のため助け合える形を築きたいものだ。
偏り過ぎてきた過去に比べて、そちらに近づいてきてはいる認識はあるのだが。
このような内観も、孤独でなければ出来ないものである。
なんとなく満たされているようで、その実不安でいっぱいで、見ないようにしているという状態であった事が、振り返ればわかる。
YouTubeやゲームや漫画はずっと親しんできたものだし、否定するつもりはないが、それらを利用する動機の中に「飢え」が入っていないかを、今後注視していきたいものである。
そしてその気配を感じられた時は、甘んじてその「飢え」を受け入れる。
当然とても辛い選択肢だが、恐らくそれは自分がしっかり感じて受け入れてあげる事でしか解消されないものだから。
それをせず、「飢え」から逃げる選択肢をとることは、自分自身の救難信号を無視するようなもので、さらに苦しい状態になっていくであろう。
それは以前にも学んでいたはずだが、またやっていた。
でもこれを繰り返す事で、どんどん精度を上げていけばいいだけ。
出来ない自分を見て、不安の中で安堵する人生はもうおしまいにしよう。
自分の可能性を信じて、自分の考えを信じて、自分自身を信じていこう。