今回は人の数だけ世界があるというお話です。
私たちが「私」と言うとき、それは身体であり、心であり、感じている存在でもあります。
けれどこの「私」という感覚は、生まれたあとに少しずつ形づくられた複合的な概念です。
その要素をそぎ落としていくと、残ってくるのは「感じる」という働きです。
感じることが積み重なったものを、認識します。
その「感じる」「認識する」とはなんでしょう。
リンゴを見て「赤い」と感じるとき、リンゴの情報は意識の中にあります。
そしてそのリンゴを感じ取る主体も、同じ意識の中にあります。
つまり——感じる側と感じられる側が同じ場にありますよね。
ここまでは、私の意識の中での出来事です。
それを私たちは、しばしばそれを外の現実と同じだと思い込み、
「みんなも自分と同じように見ている」と無意識に信じています。
しかし、同じリンゴを見ていても、同じように感じているわけではない。
同じ出来事を見ていても、同じように感じるわけではない。
そんな当たり前のことを無視して、私たちは相手を否定してしまうことがあります。
なぜでしょう?
それは「同じものを見ている」という合意を、勝手に成立させているからです。
実際には、認識した瞬間——リンゴでも、相手の言葉でも、
すでに自分の意識の一部になっています。
他人の意識ではなく、自分の意識です。
だからこそ、映画のヒーローを見れば一時的に自分が強くなったように感じたり、
大阪の人と話せば自然に関西弁がうつったりする。
私たちは「外」を見ているのではなく、心の一部を外の形に変えて見ているのです。
この仕組みを理解できると、「認識する」とは、自分が世界をつくっている行為だとわかります。
自分の認識が世界そのものだということです。