カラクリ=仕掛け=構造みたいなことですね。
ただ、理解として例えばあるサービスや商品の「原価」を知っているかどうかってそれはそれでいいんですよ。しかし「これ原価10円なのに、100円なんだよ、ぼったくってるよね」という意見(事実は前半で、意見が後半)に収れんというか、まとめちゃうのは思考停止なんだろうと。伝わりますかね?
原価厨みたいな人ならいいのですが、いいのか?というとまあおいておいて(笑)自分が仮説を立ててそれっぽいかもなあという程度(これって絶対でもないですからね)がいいのかなと。バランスですね。
ちょっといくつか示してみます。
挨拶をする人は元気である
例えばこういう話です(笑)挨拶をして挨拶が返ってくるかどうか。
挨拶って「おはようございます」というものから、「お元気ですか」とか色々ありますよね。
これで挨拶があるかないかとか、ボリュームとか、トーンとかを見て「判断」するってことでなく、この説?が成立するかどうかってイメージです。
挨拶をして、挨拶がない人は、挨拶できない状況かもしれないし、疲れているかもしれない。ジェスチャーとか、お辞儀をするだけってのもあるのでこのあたりは色々あると。
では、挨拶をしたら元気なのかというと、「元気がない挨拶」というのもあるわけなので、このあたりから「この説」は難しくなってくる。
思考実験みたいなことを書いていますが、「挨拶をする人は元気」というのは、あまりいえないかもなあというのがわかります。一方でそれが通用するとか、人とか、時間帯とか、コミュニティとか、色々あるよねというところです。営業色が強い会社だとその声が小さいとやり直しなんて(かなりやですが)あるのかもしれません。
まめに連絡をする人は気遣いする心を持っている
次いきましょう。これはどうでしょうか。
まめに、つまり頻繁に都度都度ってことですが、連絡をくれる人はこちらを気遣っていると思いがちですよね。どうですか?そういう人いませんか?
でもこれって気遣いなのかというと、結構疑問でして。そういうこともあるんでしょうが。
例えば、友達を誘ってみんなで楽しみたいので「呼んでいる」のであって、確かに呼んでいるし、誘うけども、友達全員が同じレベルの親しみがある、わけではないですよね。ここで「親しみレベル」で定義することや定量的にする意味はなくて(たまにこれを定量化したい人がいるのかもしれませんが)、そういうイメージで捉えている、比喩なだけです。
だからこそ、気遣うかどうかは分からなくて、シンプルにその人に来て欲しいといっている。これって気遣いもありえるけど、それだけではないと。むしろ、「頭数を揃えたい」というだけの理由もありえませんか?もちろんそれ友達ではないよね、ともなりますから、軽いジャブみたいな話です。
よってこれも、そういう意見はいいけども、事実でもないかなと。そういう事実があるとかもありえるので、絶対ではないですよね。
ビジネスが上手く人は必ず苦労している
ちょっと飽きてきたかもしれないので、ここで終わりましょう。
ビジネスが上手くいきたいと考える人は当然そういう人を真似するとか、真似ぶわけです。僕もそうしているはずです。
ですが、上手くいった人から得られることは驚くほど少ないことに気づきます。それを忘れてしまうことは多いですが、正確にいえば上手くできた人のやり方を一部でも真似して取り入れることはできる。そしてそれがどうなるかを試してみる。うまくいけばそれを継続する、駄目ならどうするか考える。その繰り返し以上でも以下でもないですよね。
そういう意味ではノウハウを買うとか、ノウハウがあればなんとかなるというのは結構乱暴なんですよね。もちろん仕組みとか、やり方とかを高度に落とし込んだものはあるけれど、もっと根本や本質的に考えた上での話です。表層的なら意味がないという主張です。
そして、必ず苦労するというのはまあないかなと思います。
つまり、最初から経営環境とかビジネス環境が整っていればある種「楽」して、その試せる環境があるからです。失敗してもフォローがされる。それを羨ましいとかってことはなくて、そういう環境があったといえる。なので、そういう人が、ぜんぜん違う環境の人に対して言えることは結構稀だということです。
そして、苦労すれば上手くいくという考えは僕は結構嫌いでして。ただ、自道にやって何か積んで粘るは大好きです。ただ、これも別に成功が保証されているとかって話ではない。なので、0か1とかでなく、こうすればいいって話ではないんですね。
なのでこれも疑って良いということですね。明らかになんか変と思えるかどうかもありますけどね。
さて、タイトルだけ回収しておきます(笑)
カラクリというか、誰かが言うカラクリや説は色々あるし、それをどう取るかは読む側に委ねられると。なので言いたい放題言えばいいとは思わないですが、そのカラクリは人がいったことはそれでいいとして、自分が見つけた考えたカラクリが多い方が僕は面白いと思います。
なので、日常でそういう気づきをどこまで貯められるか、要するに問いですよね。「これなんだろうか?」ということです。上の妙な「説」があるとき、それなに?って思えるかどうか。思わないならそのまま通り過ぎるわけですけど、なんだろうね?おかしいかもね?いやあってるかもね?わからないよね、という反応こそが、まさに身体性かなと思います。めちゃくちゃ大事なところですね。