凡庸を愛でる修行の始まり

凡庸を愛でる修行の始まり

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無職中年のまぁくんです。
無職生活も、1ヶ月を超えて慣れてきました。

「時が全ての傷を癒してくれる」てな格言もありますが、時間はすごいというべきか。あるいは、生物のホメオスタシスと治癒力は凄いというべきか。

兎にも角にも、時間が経てば、「異常事態」を「平常事態」へと捉え直する/解釈変更する/気構え変更する、ということが自律的に起きてくれたような気がします。

そんな中、勤め人としての次の身の振り方が決まりました。
これもご縁のおかげで、このご縁を運んでくださった方々に感謝ですし、ラッキーでありがたいことです。

転職活動の実態

振り返ると、おっさんの求職活動は、全国屈指の田舎県での活動なのもあり、のんびりしたものでした。

伝手を辿って応募したら、基本は待ち。この歳にもなると、基本は会ってもらうところまで行くのも難儀。会ってもらっても、色がつき寿命が短くなった割に、対価要求水準は高めな中年に対しては慎重になるのがノーマル。

自分が採用側に回ったことを想定すれば、当然のことです。かといって、自分1人の身上だけに関わる問題じゃないだけに、条件を雇いやすく下げていくのも易々とできるわけでもなく。これまでの経験も考えると、「なんでもやります」とも言いがたく。焦って動き回っても害の方が大きそうに感じたので、恋愛よろしく「きっと条件の合う良い縁地に巡り合えるだろう」と言い聞かせてました。

お相手のあることですから、こちらが勝手に血眼シャカリキになってどうこうできるものでは無く。やれることをやったら、祈って待つ。基本、そんなシンプルな活動でした。

余りある時間でやったこと① ふて寝

待ち中心な転職活動の傍ら、膨大な時間でやっていたことは、1にふて寝、2に断捨離、3に読書と思索でした。

まずはふて寝。雇われる場がない一方、雇われずに身をたてることも現状見出せない状況では、「待つ」転職活動以外には、目先の道を拓く有効そうな行動プランが立てられませんでした。できたことといえば、「迷いし我をお救い給え」と何者かにすがり祈る気持ちで、パワーストーン握りしめて寝ることくらいでした。

よく、人間の活動をコントロールしているのは、顕在意識が5%、残りは潜在意識と自律神経だと言います。寝るというのは、顕在意識をカットオフして、潜在意識と自律神経に制御を任せることだと思ってます。

僕の場合、微力な顕在意識がお手上げ状態だったので、何がどうなるかちっとも期待できなくても、とにかく潜在意識と自律神経にお任せっきりにしちゃう他、有効な手立ても思いつかなかった、というところでした。

余りある時間でやったこと② 断捨離

そして、これまでの人生で一番の断捨離をしました。これは、人間関係だとかそういう概念的なものの断捨離というよりは、膨大な蔵書や家電雑貨など、物質的なものを大胆に断捨離しました。

元々、「いつか図書館にしたい」と漠然と思い描きながら買いためた書籍が600冊以上ありました。前職を辞めるちょっと前、つまり今年の初夏に、本棚が重みで崩壊したのをきっかけに、「あ、積読書を溜め込むライフスタイルをやめよう」と直観が降りてきたこともあって、潔く売り払いました。

2ヶ月間ほどで、フリマアプリで600冊近い蔵書のほぼ全てを出品し、大半がそこで売れて10万円を超える金銭にはなりました。フリマで売れなかった書籍も、買取業者さんに出しました。

また、その他にも、使ってない大物家電などを買取業者やフリマアプリで譲渡し、スッキリ身軽になりました。

僕は、明らかにこれまで、インプット過剰、というか溜め込み過剰なライフスタイルでした。自分の至らなさ・未熟さに対する恐れ・不安を、書籍や物を周りに置いて補完させようという「武装」をしてきた気がします。

これを機に、溜め込んだ武器に精神的に頼ることのない、非武装ライフスタイルに変えていこうと思っています。

余りある時間でやったこと③ 読書と思索

膨大な積読書を売却するのと並行で、「流石に一度も読まずに売るのは惜しい」という根性で、積読書の何割かはシャカリキに読みました。

「いつか読みたい」と思いながら、その「いつか」の機会をずっと作らずにきたものを、お別れ確定させて「ケツカッチン」で読んだわけです。

そうすると、「こんな凄いこと書いてあったんだ」などと発見もあり、興味が派生してYouTubeなどで関連する話を聞いたり、それらを元に自分でも思索したりすることができました。

その中でも印象的なのは、苫米地英人さんの著作、仏教関連、ホ・オポノポノ関連、Ubuntsu関連、脳科学関連、ブルース・リプトン氏の著作、ジョー・ディスペンザ氏の著作、ヴァジム・ゼランド氏の著作あたり。

要は、潜在意識や引き寄せ、自己変革系のが多かった気がします。

読書と思索には、時間が掛かります。多くの社会人の方は、学生時代にまとまって読書や思索を行った後、そうそうじっくり読書や思索に没頭することはできないでしょう。私は図らずも、無職期間として、その贅沢な時間を与えていただいたような気がしております。

最大の収穫、ヴァジム・ゼランド氏の著作との出会い

そんな読書と思索の中で、一番、今の私に大きく刺さったと思ってるのが、ヴァジム・ゼランド『タフティ・ザ・プリースト』でした。
タフティ.jpg

ゼランド氏でいえば、おそらく「振り子の法則」「トランサーフィン」の概念が有名かもしれません。

私の解釈では、おそらく、仏教も量子学的人生論者も脳科学的人生論者も、同じ境地を見てそこへのアプローチを説いてるんじゃないか、と思っています。その境地に至るルートは多彩で、それぞれの立場・知見の中から、言葉にして正確に伝えるのが難しいことを、手を替え品を替えて伝えようとしている、と理解しています。

今の私の場合、ゼランド氏(とゼランド氏の思想を解説して下さってる方々)の示すアプローチが、一番刺さってきました。そしてゼランド氏で刺さったことで、それまで読んだけどクリアになってなかった他の方々の著作についても、「あ、こういうこと?」とゼランド道を軸にして霧が晴れたような気になったのです。

僕の人生課題に気づけたかも

さて、そんな活動を通じ、僕は、自分の半生を振り返って、ずっと目を向けられてこなかった「隠れた課題」を見つけ出した気がしています。

具体的には、「非凡への憧れをやめる」「凡庸を受容し、凡庸のまま幸せになる」です。

思い返せば、親からの影響もあって、小学生の頃から「非凡の証明」を認識外のところで絶対的課題にして生きてきた気がします。

最初は、親が持っていた恐れの伝承として植え付けられ、その後は自分も「きっと自分は非凡だ」「自分は凡庸な人らとは違う」との思いにすがり、大きくなってからは「平凡は淘汰される」「プロになれ」「偉業を成し遂げろ」といった社会に見られるメッセージ(ゼランドさん的にいえば「振り子」)に共振し、オラオラしてた気がします。

そして気づくと、「人並み」もできず途方に暮れるほど、誰よりも凡庸だった。そして、この状況は実際平凡だからなったわけでなく、「非凡でなければならない」で爆進する我が有様が呼び込んでいた。

平凡という地平線から突出した「非凡」を想定し、「非凡でなければ、自分は生きる価値がない」という恐れ(ゼランドさん的に言えば、非凡さに重要性を付与し過剰ポテンシャルを生んだ)にドライブされてきた結果、かえって、生きる価値を感じられない事態を呼び込んできた(平衡力を作用させた)ように感じたわけです。

考えてみれば、「平凡に生きる」をもできない、と途方に暮れた時にやったことといえば、ホ・オポノポノの昌句「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛してます」や、親鸞上人の悪人正機・他力本願(南無阿弥陀仏)だったりしたわけです。身から出た錆で途方に暮れた情けない中年の自分を「許す」をトライしておりました。

これまで、認識しないまま強固に抱えてきた非凡崇拝によって、迷走しついに途方に暮れた、そんな自分を許すことに邁進していたと思います。

望み

気付いたからには、これからのことを考えるわけです。

僕は、自分を迷走させる「非凡崇拝」から脱洗脳し、幸せに生きていかねばなりません。そのためには、まだ残存している「非凡(優)/凡庸(劣)」の物差しから解放されたい。これまで「凡庸」と決めつけ見下げたり無視していたものを、ニュートラルに見出し愛でたい。

自分が凡庸であることを心穏やかに受け入れ、凡庸なりの生活をありがたく受け入れ、その中で幸せを見出したい。

ポジティブにもネガティブにも気分・態度・言動を過度に浮沈・突出させることなく、バランス・中庸を目指したい。「良いこと」にも「悪いこと」にも過度に重要性を持たせず、常に「詳細は知らんけど、なんとかなるし、なるようになるよ」の気軽さを持ち続けたい。

いつか、「生きるパワースポット」のような、穏やかに周囲にジワーンと安心感・安定感・元気・希望を与えられる存在になっていたい。

それが、これからの僕の人生の望みかな、と設定しております。
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