論理学的思考の罠

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マネー・副業
論理学とは論理を研究する学問であり、古くは哲学の一分野でしたが、以下では数学の一分野としての論理学(記号論理学)について考えます。

その論理学の帰結として、命題に関する様々な定義や定理が存在します。「pならばqである」という形の命題に対しては、「対偶」、「逆」、「裏」、という命題が定義されます。 

なお、命題とは、Wikipediaによると「意味に不明瞭なところがない文章」であり、定義が曖昧であったり、客観的でなかったりする言葉を含む文章は、命題とはなり得ないことになります。 

「対偶」とは、「qでないならばpでない」という命題であり、元の命題が正しければその「対偶」もまた正しいことが証明されています。 
「逆」とは、「qならばpである」という命題であり、元の命題が正しくてもその「逆」は必ずしも正しくありません。
「裏」とは、「pでないならばqでない」という命題であり、元の命題が正しくてもその「裏」は必ずしも正しくありません。なお、「逆」と「裏」とは「対偶」の関係にあります。

さて、「株を買えば株価は上がる」という「命題」を考えましょう。 
この「命題」が命題の体をなしているかはさておき、この「命題」の「対偶」、「逆」、「裏」を記述すると、「対偶」は「株価が上がらなければ株を買わない」、「逆」は「株価が上がれば株を買う」、「裏」は「株を買わなければ株価は上がらない」となります。

私たちが物事を判断する際、元々の命題に対して「対偶」や「逆」、「裏」を考えて、それらを新たな命題にしてしまう場合が少なくありません。 
しかし、厳密に言うと、元々の命題がそもそも「命題」であるのかが重要であり、さらにそれが「命題」であり正しかった(真であった)としても、その「逆」や「裏」は必ずしも正しいということにはならないのです。

私たちはともすると、元の命題が「命題」であるかを判定せずに、よしんばそれが正しい命題であったとしても、「逆」や「裏」もまた正しいと思い込んでしまいがちなのではないでしょうか。 

例えば上の例で、「株を買えば株価は上がる」は一見正しそうですが、これだけでは真偽を判定できません。少なくとも、どの株をどれだけ買えばどれくらいの期間に渡って株価が上がるのか、が明確でなければなりません。 

1万株の売り板に対して100株を買っただけでは、せいぜい株価は一時的に1ティック上がるに過ぎません。10万株を買えば株価は何ティックも上がるかもしれませんが、直ぐに元に戻るかもしれません。 
このように、単純に「株を買えば株価が上がる」などとは言い切れないことが分かります。それを命題にするためには、複雑な条件を加えなければなりません。

そうであれば、「株を買えば株価が上がる」という文章の「対偶」や「逆」、「裏」を考えること自体、無意味なものとなってしまいます。 
仮に、「トヨタ株を10万株買えばその後5分間に渡って株価が50円上がる」という文章を命題だとしても、この命題の「対偶」や「逆」、「裏」からは、含蓄があり示唆に富む言葉を、何ら紡ぎ出すことは出来ないでしょう。

「株価が上がるまで、買いを控えましょう」とか、「株価が上がったら、買い出動しましょう」などという言葉には、論理学的に何ら根拠を見出すことは出来ません。 
ただし、論理学とトレードはまったく別物であり、上記のようなアドバイスはアドバイスとして受け止める分には、問題ないのかもしれません。

このように、一見、正しい命題らしく見える言葉を元に、その「対偶」や「逆」、「裏」などを作り、それらがあたかも正しいかのように述べることは、割とよく見聞きするのではないでしょうか。 
しかし、それらを鵜呑みにするのではなく、自分でしっかりと論理的に判断する習慣を身につけたいものです。

「新型コロナウイルスを拡散させないために、外出を控えましょう」という言葉の「対偶」は、「外出を控えなければ、新型コロナウイルスが拡散します」となります。 
「逆」は「外出を控えれば、新型コロナウイルスは拡散しません」、「裏」は「新型コロナウイルスが拡散するのは、外出を控えないからです」となります。

百歩譲って最初の文章が「命題」であり「真」であるとした場合、正しいのはあくまでその「対偶」であり、「逆」や「裏」は必ずしも正しくありません。 
いわゆる「何たら警察」の表向きの論拠は、この「逆」や「裏」に基づいているような気がしてなりません。数学的には全くもってナンセンスな話です。

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