「ギャンブラー・くだらないことに生命を賭ける人々」

「ギャンブラー・くだらないことに生命を賭ける人々」

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コラム
私は麻雀が好きで、しばしばオンライン麻雀をしている。SEGAの「MJ」という、結構メジャーなサイトでしているのだが、現在の称号は「飛龍」である。そんなことを言っても、何のことやら分からないという方が大半であろうが、説明させて頂くと、MJではまず十級から始まり、一級~初段、そこから十段まで段位があり、その上に様々な称号がある、といった具合である。

称号には実に多くのものが存在するのだが、その中でも「飛龍」はかなり上の方の称号になる。そして、私はここまで完全に無課金で到達している。何が言いたいかと言えば、要するに「私は麻雀が強いですよ」ということなのである。

さて、自慢はこのくらいにして、本題に入ると、麻雀をやる人間というのは昔は特に人格的、人間として問題のある人物が多かった。ギャンブラーというのはある意味において、救いようのない人種であり、ギャンブルのためなら全てを犠牲にしても何も思わない、という人が大半である。

かく言う私も、昔は賭け麻雀にどっぷりと浸っていた。休みともなれば、折角、仕事で得たお金を賭け麻雀に費やしてしまうのだから、本当に救いようのない人間であった。自分がギャンブラーだっただけあって、私は彼らの考えることは大方予想できる。

ギャンブラーという人種は、兎に角、勝負を人生の全てだと考えている節があって、勝負のために他の全てのリソースをそこに注ぎ込むという性癖のようなものを持っている。

従って、彼らが何かに満足するということは基本的にない。負ければまた、お金をそこに注ぎ込むだけだし、勝てば勝ったで、得たお金で何か美味しいものでも食べるという訳でもなく、またそのお金は次の勝負に注ぎ込む訳である。

彼らは何処まで行っても、満足することがないのだから、全く救い難いところはある。勝負に負けた方はリベンジの機会を狙っているし、勝った方はまた次の勝負に挑む、といった感じである。

であるからして、昔からギャンブラーは親の死に目に遭えない、とか、畳の上では死ねない、というようなことを言ったらしい。現在の令和のような計画性、論理性を重んじる時代からは凡そ、想像もできないような価値観であると言える。実際に、彼らの多くはほぼ、「野垂れ死に」のような最期を迎えている。

彼らのような人間は、現代日本においては「愚か者」として人々の嘲笑を買うような存在であることだろう。まあ、普通に考えて、彼らのやっていることは全く何にもならない行為であり、無駄なことだけをして、人生を終えるという、まさしく「失笑もの」の一生であるのかもしれない。

しかし、私はそういったギャンブラーの生き方、価値観がとても好きだ。彼らの生き方には大いに共感するところがある。くだらないとされていることに生死を賭けてしまう、というところが余りに馬鹿、と言うか愚かで、何か可愛く思えてしまうのだ。

彼らの言う、「人生、一度切りだから、好きなように生きて、好きなように死ねばいい」という考え方にもやはり、少なからず共感してしまう。確かにごもっともな話で、それを言われたらそうだよね、と言うしかない。

くだらないことに生命を賭ける、という行為自体がなんか余りにもアホで、とても可愛らしく思える。彼らを端的に表す言葉があるとすれば、それは「愛すべきアホ」というものになると思う。

ここまで色々と述べて来たが、やはり、私にもギャンブラーの血が流れているんだと思う。妻に言ったら失神されそうだが、私も一度は生命を賭けるような、そんなワクワクする勝負をしてみたいとどこかで考えている。願わくは、その日が来ないことを祈るばかりである。






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