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母に見られてはいけない禁断のお話

 近田家の夫婦喧嘩について 母はよく父親にもっと稼いで来いという、そうなるともう母は止められない。 そして父親は何も言い返せないのだ、なぜかと言うと母がうるさすぎてヒートアップするとだれも手につけなくなるからだ。ちなみにヒートアップした母はとめられない。 正直父親は言い返したくてたまらないだろうと思う。 ちなみに母はこんな事をよく言う、人に頼むのではなく出てきた問題はじぶんで解決しよ!と、なのに母は稼いでこない父親を見てもっと稼いで来いという。おかしくはないか、若いころから付き合っていたと言っていた、それなら父親の将来どうなりたいかなどは知っているはずだろう。そして父親が将来昇格する気はあるかなどを聞き出し年収が上がる見込みのある人かは考えればわかるはずだ。だがそんな父親を選んだのは母だ、これにかんしての件は母の大きなの選択ミスになったのではないかと思う。 話に戻ろう、母は父親に稼いで来いとよく怒鳴る。それをを僕は見ていておもう、そんなに父親に稼いで来いと言うのなら自分で稼げよ、と、それを僕は恐る恐る母に言ったら母はモンスターハンターに出てくるババコンガのような顔をして大激怒だ!それには恐れ入ったよ。 面白い話はもう一つある。それは母が料理をしないということである。いや、料理をしないのではなく出来ないのだ。そのことを僕は高1の時に気が付いたとき、はっ!!となり泣きながらなんで冷凍食品やお惣菜はなんでこんなに美味しくなっちまったんだと感動してしまったほどだ。 そして母は父親と付き合っていた時の時代の料理できない言い訳は泊りをしていて毎回料理の時間になると突然お腹が痛くなったと言
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「過干渉」の行く末 →・・” 出来たらよい・できなかったらダメ” を育てる

お子さんを不登校にしてしまった親御さんの多くは、自分の過干渉に気づいていない場合がほとんどでしょう。もちろん私もそうでした。 過干渉って、自分の中に無意識的に思っている”こうあるべき”や、 ”ねばならない”が、言語化されて、子供を追い詰めていることですよね。結局、自分の心の不安を、子供にぶつけているだけ・・。 一番に、自分のことを分かってほしい相手(親)に、毎日、そんなことをされてたら、繊細な子であればあるほど、心が折れてしまうでしょう。”こうあるべき”や、”ねばならない”の中で、育った子供は、極度に、 ”できることは良いこと” ”できないことはダメ”という固定観念が強化されていくはずです。 ですので、できなかった自分に、強く落ち込むようになるのでしょう。 学校でいじめを受けたら、自分のことをダメな自分だと思って死にたくなるのでしょう。 ”できなくてもいいんだよ”と、どんな状態の子供でも、親が受け入れるという姿勢が、子供の能力を引き出します。これは、私たち親子の経験から、私が感じ得たことです。 言葉にすると、短くまとまりますが、これを実感するまでに、5年以上かかりました。 なんて遠回りをしたのでしょう。 無駄な苦しみの、一人芝居の結末が、子供の不登校です。 今でもふと、激しい後悔の念にかられることは正直あります。ですが、それより、この真実に気づき、安堵している喜びの方が強いと感じている今日この頃です。
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「こうしないといけない」という事はそんなにないんだと思うよ

「こうしないといけない」という事はそんなにないんだと思うよ人っていちいち、「こうしないといけない」「そうしないといけない」「ああしないといけない」に縛られ過ぎだと思う。自分に圧をかけて、自分を縛って、そんなの息苦しいだけじゃなかと思うんんだよね。それに自分が縛られすぎていると、人にも同じことを強要したくなる。そうすると、お前も、あいつも、と相互監視に日々を費やし、より厳しいルールが設定されて、また縛られて、の悪循環だとも思う。私は神社仏閣鑑定をやっていて、そういった中でよく、「こうしないといけない」んですよね、という質問をいただくのだけれども、「こうしないといけない」という神社仏閣マナーみたいなものって、そんなに必要なのかと常々思う。なんだか、見た目だけ整えて作法だけきっちりやったって、そりゃあマナー講師からすれば花丸かもしれないけれども、「こうしないといけない」に縛られて神社仏閣に行くってそもそも意味があるのかとも思う。だって、マナー講師に花丸をもらいに行く為になっちゃってるだけじゃん、って。粗相なんてものはもっと別のところにあって、神が「作法がなっていません」って怒るかっていう話で。そもそも何を思って神社仏閣へ行くのか。感謝したいから、良い気に触れたいから、お願いしたい事があるから、辛いから、苦しいから、悲しいから。だから、神に会いに行くわけなのだから、心を正直に曝け出す事が大事だと思っている。そりゃあ、神だって気まぐれだから、願いが全て叶う訳では無い。でも、心の有り様は、ちゃんと見ている。大事なのはそこでどう向き合うか、神と、自分と、そうして他者と。それだけなんじゃないか
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応援されなくてもやりたいこと

生きることは本来、もっと楽で、もっと心地いいものです。疲れたら眠れる。水を飲めば落ち着く。呼吸が深くなると、身体が緩む。生命はいつも、楽な方向に戻ろうとしています。それなのに、恒常的に苦しい人がいます。その苦しさの多くは、外から来ていません。「こうあるべき」ストレスは外から受けるものと教えられます。しかし実際は、いつの間にか自分の中に入った「こうあるべき」で自分で作ります。親から、学校から、職場から。気づかないうちに積み上がって、いつの間にか自分の基準になっています。その「こうあるべき」に従うとき、身体は先に反応します。たとえば、喉の奥が少し詰まる。呼吸が浅くなる。胸の前が固くなる。頭ではわからなくても、身体のほうは固まる。逆に、自分の感覚を通した選択をしたときは違います。深呼吸が一度入る。肩が下がる。腹の底がじわっと温かくなる。派手な快楽ではなく、戻っていく感じです。「こうあるべき」が強くなるほど、この身体の声が聞こえにくくなります。それ、誰にもバレないならやりますか自分の選択に「こうあるべき」が混ざっているかどうかを見分ける問いがあります。それ、誰にもバレないならやりますか。「やらない」が出るなら、動機の主成分は承認です。誰かに良く見られたいから、やっている。「やる」が出るなら、少なくとも承認だけではない。ただし、承認そのものは悪くありません。あったら嬉しい、なくてもやる、という承認なら問題ない。問題になるのは、否定されると動けなくなる承認です。もう一つ。否定されると分かった瞬間に、その選択の熱が消えますか。消えるなら、承認が燃料になっています。消えないなら、承認が混ざって
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