なぜ聖書を信じる人が減らないか
クリスチャンのなかには、聖書を「かたくなまでに」信じる人が後を絶たないのですね。お前もそうではないかと言われてしまうのですが、ほんとうにガチガチに信じる人が後を絶たない。その理由を私なりに考えてみました。よろしければお読みくださいね。「養老孟司」のような人がいます。もっと前では「立花隆」みたいな人もいました。「知の巨人」などと言われていたものです。「河合隼雄」とか、それから「佐藤優」のような人など、とにかくどの時代にもいたものです。最近の経験ですが、「奥田知志」さんが、このあいだの日曜日に教会ホームぺージおよびnoteで公開した文章を見ました。元総理大臣の国葬を巡る話題でしたが、内容のことが言いたいわけではありません。その記事には、私が見た時点で、85もの「スキ」がついていました。これは多いと思いました。
なにが言いたいかと言いますと、このような「いかにも賢そうな人」に「より頼む」と言いますか、そういう気持ちが、とくに自分で物事を考えられない人に多数いるということです。この現象は、そのように説明するのが最もすっきりするように思われます。「聖書」もそうではないか。自分では物事が判断できない人が、聖書に「より頼んで」、聖書を権威にして必死にしがみついているのではないか。そう思えたのです。これが、「かたくなまでに聖書を信じる人」が減らないと思われる理由です。
いっぽうで、そのような「かたくなまでに聖書を信じる人を馬鹿にする人」もいます。キリスト教内部でもいます。「リベラル派」などと言います。そうでない人を「保守的」などと言ったりします。この「リベラル派か、さもなくば保守的か」という二
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