なぜ聖書を信じる人が減らないか

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クリスチャンのなかには、聖書を「かたくなまでに」信じる人が後を絶たないのですね。お前もそうではないかと言われてしまうのですが、ほんとうにガチガチに信じる人が後を絶たない。その理由を私なりに考えてみました。よろしければお読みくださいね。

「養老孟司」のような人がいます。もっと前では「立花隆」みたいな人もいました。「知の巨人」などと言われていたものです。「河合隼雄」とか、それから「佐藤優」のような人など、とにかくどの時代にもいたものです。最近の経験ですが、「奥田知志」さんが、このあいだの日曜日に教会ホームぺージおよびnoteで公開した文章を見ました。元総理大臣の国葬を巡る話題でしたが、内容のことが言いたいわけではありません。その記事には、私が見た時点で、85もの「スキ」がついていました。これは多いと思いました。

なにが言いたいかと言いますと、このような「いかにも賢そうな人」に「より頼む」と言いますか、そういう気持ちが、とくに自分で物事を考えられない人に多数いるということです。この現象は、そのように説明するのが最もすっきりするように思われます。「聖書」もそうではないか。自分では物事が判断できない人が、聖書に「より頼んで」、聖書を権威にして必死にしがみついているのではないか。そう思えたのです。これが、「かたくなまでに聖書を信じる人」が減らないと思われる理由です。

いっぽうで、そのような「かたくなまでに聖書を信じる人を馬鹿にする人」もいます。キリスト教内部でもいます。「リベラル派」などと言います。そうでない人を「保守的」などと言ったりします。この「リベラル派か、さもなくば保守的か」という二択になっているのも変な話だと思いますが、とにかく先ほど私が述べたようなことを言いますと「お前はリベラルか」というレッテルをすぐにはられたりします。じつは、リベラルにもいろいろいます。私の教会の牧師は、いわゆる典型的な「リベラル」だと思います。彼が旧約聖書について話をするときのネタ本は知りませんが、彼が新約聖書について語るときのネタ本は知っています。田川建三の『新約聖書 訳と註』です。私はその叢書は、2017年までには、註まで含めて読破しており、現在、2周目を読んでいます。2回読めるくらいですから、私も田川建三が嫌いなのではありません。しかし、その代わり、その牧師が、いかに田川建三に依存しているかは手に取るようにわかるわけです。ありていに言えば、田川建三の「受け売り」と言ってよいでしょう。そして、彼は「聖書ごりごりの連中」をこれでもかと叩いている。でも、聞いている人もその意見に賛成の人ばかりなので、すっかり皆さん自分たちは「進歩的」だと思っておられるご様子です。つまり、その牧師は、聖書が権威でなくなって、田川建三が権威になっただけなのです。

私の知っている、ある私より一回り若い別の牧師もそうでした。彼は「ぼくはもう『聖書を信じる』といった幼稚なことは卒業しました」という顔をしていました。しかし、彼は(さきほど述べた)「奥田知志」の言うことを信じていました。信じるものが「聖書」から「奥田知志」に変わっただけなのです。彼はまた読書が大好きでした。一度、彼の家に泊まって、暇つぶしに本を借りたことがありました。彼が貸してきた本がまさに「養老孟司」であり「河合隼雄」であり…だったのです。彼の特技もまた「受け売り」でした。

「受け売り」が悪いと言いたいわけではありません。そもそも「純粋に自分の意見」などというものはめったに出ないものです。先の田川建三さんにしても、よく読めば、自分の意見は、過去にいろいろな人が言ってきたものを整理したものであって、すでに言われて来た意見だ、と書いています。たまに「田川オリジナル」の意見も含まれていますが、そういうときに田川さんは「これは自分のオリジナルの意見だぞ。すごいだろう」と言って「自慢」しているわけではありません。むしろ慎重になっています。その意見を言っている人が自分以外にいないからです。私は少しだけ数学の研究の経験があります。これも、大河のような数学の流れにたいして、1滴でも自分の意見を垂らせたらすごいという世界であり、そうそう自分の意見が出るわけではありません。東大の大学院のガイダンスでも当時の数理科学研究科長の岡本和夫教授が言っていたものです。自分の発見だと思ったものの、およそ8割は、図書館に行ってみると、もう誰かがすでに述べている意見だ、と。しかし、その経験を繰り返していけば、0.8×0.8×0.8×…で、しまいには自分のオリジナルのアイデアが出て、博士論文が書けるものですよ、と。ですから、自分の意見だけで成り立つわけではないことは明らかです。さきの奥田知志さんも言っていました。「せっかくいい説教が書けたと思っても、それはすでに誰かが言っていることなんだよな」と。それは実は聖書そのものが言っています。「見よ、これこそは新しい、と言われることも/はるか昔、すでにあったことである」(旧約聖書コヘレトの言葉1章10節)。いや、ほんとうに新しいことはあります。ただし、「まだ誰も言ったことのないこと」かつ「価値のあること」を言うのが難しいのです。

ですから「受け売り」が悪いと言いたいわけではありません。いままでにいろいろな人がさまざまなことを言ってきたうえでものを言うことしかわれわれにはできないのです。私がたったいま書いているこの意見も、きっとだれかがすでに言っている意見に違いありません。しかし、世の中の多くの人が、自分で考える力を持たず、「賢そうな人」の意見に「より頼む」傾向があることは明らかであると思われます。それが、一部のクリスチャンにとっては「聖書が絶対の権威」なのです。だから、聖書の権威に「すがりつく」人は減らないのだと考えられるわけです。そして、それを叩く人も減らないのです。
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