こんにちは。ご先祖様の声の通訳、水木(mizuki)です。
「先祖の声の通訳って?」と気になった方はプロフィールをご覧ください↓
前回の記事では、
「先祖の声」って、本当に聞こえるの?
というお話をしました。
私にとっての「声」は、必ずしも耳で聞こえる言葉ではありません。
ふっと浮かんでくる言葉。
映像。
感情。
身体の感覚。
なぜか強く気になること。
そういったものも含めて、先祖から何かを「受け取る」ことがあります。
では、
先祖の声は、どんなときに届きやすくなるのでしょう?
今日は、私自身がこれまで先祖の声を受け取ってきた中で感じていることを書いてみたいと思います。
「聞こう」とするだけでは、聞こえない?
まず、少し意外かもしれません。
先祖の声を聞きたいからといって、
「何か聞こえないかな?」
「何か教えて!」
と、ずっと力を入れているときほど、
私はかえって受け取りにくいように感じます。
なぜなら、自分の中に「こういう答えがほしい」という気持ちが強くなるから。
そうすると、
「こうだったらいいな」
「きっとこう言っているはず」
という自分自身の声と、受け取ったものとの区別がつきにくくなります。
だから私が意識しているのは、
「聞こう」とすることよりも、「受け取れる状態でいる」こと。
です。
① 受け取る側に「聞く姿勢」があるとき
これは、前回の記事で紹介した父との出来事でも、とても強く感じました。
長野のお墓で、突然「石」というキーワードを受け取ったとき。
私は父に、
「お父さん、おばあちゃんが石って言ってるんだけど、何か思い出すことある?」
と聞きました。
すると父の中から、すぐに一つの記憶が出てきました。
生まれてすぐ亡くなったお姉さんのために、
おばあちゃんがお墓に供えていた石。
そこから、さらに話がつながっていきました。
このとき私が感じたのは、
父自身が「何かを受け取りたい」と思っていたことも、
とても大きかったんじゃないか
ということです。
自分では直接感じられなくても、
「何かあるなら知りたい」
「先祖の気持ちを聞いてみたい」
という姿勢でいる。
それだけでも、受け取るための土台になるのだと思います。
② 「答え」を決めていないとき
もう一つ大切なのが、
最初から答えを決めないこと。
たとえば、
「先祖はきっとこう言っているはず」
と思っている状態で受け取ろうとすると、
どうしても自分の考えに引っ張られます。
だから私は、
「何が来るかわからない」
くらいの気持ちでいるようにしています。
むしろ何も来なくても、「まぁ今じゃないのね」くらいの気持ちです。
ぼーっと空を眺めていよう〜くらいの軽さ。
何か浮かんできたら、
「これは何だろう?」
と、そのまま受け取る。
すぐに意味を決めずに、
「石?」
「なんで石なんだろう?」
と、その先を追っていく。
すると、自分では思いもよらなかったところにつながることがあります。
前回の記事の「石」も、最初から
「お墓をこうしたほうがいい」
という答えが来たわけではありません。
ふと、ただ「石」という小さな情報が届いただけでした。
そこから少しずつ意味がほどけていきました。
③ 先祖側にも「伝えたいこと」があるとき
そして、これは私がとても大切だと思っていること。
私たちが聞きたいと思っているだけでは、必ずしも何かが届くわけではない。
ということです。
私は、先祖の声を「こちらから取りに行く」というより、
「伝えたいものがあるところに、受け取れる状態の人がいる」
というイメージのほうが近いです。
だから、何も感じない日があってもいい。
何も起こらなくてもいい。
「今日は何もないな」
で終わってもいい。
それは、先祖とのつながりがないということではないと思っています。
むしろ、必要なときに必要なものが届く。
私はそんなふうに感じています。
④ 自分の心に余白があるとき
そして、もう一つ。
私自身が経験していて感じるのは、
心の中に少し余白があるときほど、受け取りやすい
ということです。
忙しくて頭の中がいっぱいのとき。
「絶対に答えを出さなきゃ」と焦っているとき。
自分のことで精一杯になっているとき。
そういうときは、何かがあったとしても気づきにくい。
反対に、
ふっと力が抜けているとき。
静かに過ごしているとき。
お風呂に入っているとき。
歩いているとき。
ぼーっとしているとき。
そんな何気ない時間に、突然何かが浮かんでくることがあります。
「今、それ?」
と思うようなタイミングで。
でも、そういうときのほうが、案外クリアだったりするんです。
⑤ 「こうであってほしい」を手放しているとき
これは、②とも少し似ています。
先祖から何かを聞きたいとき、
「大丈夫って言ってほしい」
「この道で合ってるって言ってほしい」
「こうしなさいって答えをもらいたい」
という気持ちが強くなることがあります。
でも、そんなときこそ、
一度それを手放してみる。
「どんな答えでも受け取ります」
くらいの気持ちでいる。
私は、そのほうが受け取ったものをそのまま見やすくなると思っています。
先祖の声が届きやすいのは、「特別な人」ではない
ここまで読むと、
「じゃあ、何か特別な能力が必要なの?」
と思うかもしれません。
でも、私はそうは思っていません。
むしろ大切なのは、
聞く姿勢があること。
答えを決めつけないこと。
心に少し余白があること。
そして、
必要なものを受け取ろうとすること。
それくらいなのかもしれません。
もちろん、人によって感じ方は違います。
言葉で受け取る人もいる。
映像で受け取る人もいる。
夢に出てくる人もいる。
ふとした記憶として浮かぶ人もいる。
何かを見た瞬間に、「あ、この人だ」と感じる人もいる。
先祖とのつながり方にも、その人なりの形があるのだと思います。
「聞こえない=つながっていない」ではない
そして、これも伝えておきたいこと。
何も感じないからといって、
「私には先祖がいないのかな」
「先祖とつながれていないのかな」
と心配する必要はありません。
声が届いていないのではなく、
まだ自分が「声」として認識していないだけかもしれない。
そもそも、先祖とのつながりは、
「何かを感じること」
だけが目的ではありません。
思い出すこと。
話しかけること。
感謝すること。
家族の歴史を知ること。
その人が生きていたことを覚えていること。
そういうことも、つながりの一つだと思っています。
私が「通訳」として大切にしていること
だから私が先祖の声を通訳するときも、
「何かを当てる」
ことを目的にはしていません。
受け取ったものを、
「これはこういう意味です!」
と最初から決めてしまうのでもありません。
言葉。
感情。
映像。
身体の感覚。
記憶。
その一つひとつを受け取りながら、
「これは何を伝えようとしているんだろう?」
と一緒にほどいていく。
手紙の内容が、単語だけになることもあります。
そして最後に、
受け取ったものをどう生きるかを決めるのは、ご本人です。
先祖の声は、人生を決める命令ではありません。
自分の人生を、自分で選ぶための一つの材料。
私は、そんなふうに考えています。
あなたは、どんなときに何かを感じますか?
もし今まで、
「なぜかあの人を思い出した」
「なぜかこの場所に行きたくなった」
「急に昔のことを思い出した」
「夢に出てきた」
「なぜかわからないけど、これが気になった」
という経験があるなら、
一度だけ、その感覚をすぐに「気のせい」と片付けずに、
「もし何かを受け取っていたとしたら?」
と、少しだけ眺めてみてもいいのかもしれません。
先祖の声は、大きな声で呼びかけてくるものではなく、
私たちの日常の中に、静かに置かれているものなのかもしれません。
そして、それに気づける余白ができたとき、
「なんだろう?」
という小さな感覚から、少しずつつながりが見えてくることがあります。
先祖とのつながりは、もっと自由で、もっと身近なものなのかもしれません。
私は、そんな「小さな声」を一緒に受け取り、言葉にしていくお手伝いをしています。
先祖の声の通訳、水木(mizuki)