昨日のココナラのブログ『義理と人情と涙腺』を見返していましたら、またまた変なところにスイッチが入ってしまいました(笑)。
ブログの最後に、
「やっぱり紀真(きま)は、タクシーの車で生きていくことにします」
と書いてあります。
ところが、これを読み返していたら、
「私は、タクシーの車両になりたいの?」
「タクシードライバーになりたいの?」
「それとも、タクシーに乗るお客様の助けになりたいの?」
と、またまた変なところにスイッチが入ってしまいました(笑)。
そうしたら、大昔に聞いた大和信春(やまと・のぶはる)さんの講演録音を思い出しました。
大和先生は、広島大学大学院で心理学を学び、その後、研究者・コンサルタントとして、企業理念や問題解決などについて研究されてきた方です。
その講演の中で、先生は「馬車」を例にして、
「本当に自分が望む人生を送るためには、自分の中で何を大切にすればよいのか」
ということを説明されていました。
本当なら、その講演の内容をきちんと思い起こしてお伝えできればよいのですが、何せ、かなり昔のことです。
そこで今回は、私が記憶している話と、古代インドの哲学に登場する「馬車の比喩」を重ねながら、紀真流の解釈としてご紹介してみたいと思います。
馬車の比喩とは
『カタ・ウパニシャッド』という古代インドの哲学書には、人間の生き方を「馬車」にたとえて説明する有名な話があるそうです。
ちょっと、自分が一台の馬車に乗って旅をしているところを想像してみてください。
馬車そのものは、人間で表すと「身体」です。
そして、馬車を引いている「馬」は、人間の感覚や欲望を表しています。
「おいしいものを食べたい」
「楽をしたい」
「お金が欲しい」
「人から認められたい」
「あの人に勝ちたい」
人間には、いろいろな欲望があります。
馬が元気であれば、馬車は大きな力で前へ進みます。
そう考えると、欲望は必ずしも悪いものではありません。
欲望は、人間を動かすエネルギーでもあります。
ところが、馬は自分で、
「私は、どこへ行けばいいのだろう?」
とは考えません。
目の前においしそうな草があれば、そちらへ走っていくかもしれません。
そこで必要になるのが、「手綱(てづな)」です。
そして、その手綱を握って馬を操るのが、「御者(ぎょしゃ)」=理性です。
御者がしっかりと馬をコントロールできれば、馬車は目的地へ向かうことができます。
反対に、馬に御者が引きずられてしまえば、馬車はあちこちへ迷走してしまいます。
でも、ここでもう一つ大切なことがあります。
たとえ御者がどんなに優秀で、馬を上手にコントロールできたとしても、
「どこへ行くのか」
という目的が間違っていたら、どうでしょう。
理性が優れているからといって、必ずしも良い人生になるとは限りません。
悪い目的を達成するために、理性を使って巧妙に行動する、ズル賢いことだってできます。
では、馬車の中には誰が乗っているのでしょうか。
『カタ・ウパニシャッド』では、この馬車に乗っている者を「アートマン」と呼びます。
アートマンは、簡単に言えば「真の自分」と説明されるものです。
馬車を動かす馬でもありません。
馬を操る御者でもありません。
馬車そのものでもありません。
その馬車に乗っている「主人」です。
そこで、私なりに整理してみると、
身体=馬車
感覚・欲望=馬
心=手綱
理性=御者
本当の自分=主人
という関係になります。
そして、ここからが私にとって大切なところです。
大切なのは、馬を殺してしまうことでも、馬を好き勝手に走らせることでもありません。
馬の力、つまり感覚や欲望を生きるエネルギーとして生かしながら、御者である理性が手綱を取り、主人が望む方向へ馬車を進めていく。
私は、これを「志」という言葉で考えると、とても分かりやすいように思います。
つまり、
欲望は、馬。
理性は、御者。
志は、主人が向かいたい目的地。
そんなイメージです。
「欲望をなくせば、立派な人間になれる」という単純な話ではありません。
欲望には、人間を動かす大きなエネルギーがあります。
だからこそ、そのエネルギーを理性によって上手に扱い、自分が本当に向かいたい方向へ生かしていくことが大切なのではないでしょうか。
……と、ここまで書いて、
「では、紀真はタクシーのどこに乗るんだ?」
と、また変なスイッチが入りそうです(笑)。
運転席なのか。
後部座席なのか。
それとも……タクシーそのものなのか。
人生って、考え始めると、なかなか面白いものです。