序章|人は、立ち止まることさえ許されない
前回のお話で、おばあが人生で一番大切な人を失ったことを書きました。
記事を読んでくださった方の中には、
「その後、おばあはどうなったのですか」
と思われた方もいるかもしれません。
けれど私は思うのです。
本当に苦しかったのは、その日ではなかったのかもしれないと。
人は大切な人を失った時、その場では泣くことしかできません。
本当の苦しみはその後にやってきます。
朝は変わらずやって来る。
お腹も空く。
洗濯物も溜まる。
子どもも育てなければいけない。
世の中は何事もなかったように進んでいくのに、自分だけが取り残されたような気持ちになる。
おばあにとっての本当の地獄は、そこから始まったそうです。
第一章|力なんて、なければよかった
夫を失ってからのおばあは、自分を責め続けたそうです。
悲しかった。
苦しかった。
寂しかった。
けれど、一番大きかったのは怒りだったと言います。
誰かへの怒りではありません。
自分自身への怒りでした。
どうしてあんなに胸が苦しかったのか。
どうして何度も嫌な夢を見たのか。
どうして理由もない不安に襲われていたのか。
そして、どうして守れなかったのか。
答えは何年経っても出ませんでした。
おばあは昔から、
「未来が見えるわけじゃないさぁ」
と言います。
確かに何かを感じることはあった。
胸騒ぎがすることもあった。
夢を見ることもあった。
けれど、それが何を意味するのかまでは分からない。
だからこそ苦しかったそうです。
もし何も感じなかったなら。
もし普通の人と同じだったなら。
こんな後悔をしなくて済んだかもしれない。
そう思った夜は一度や二度ではなかったと言います。
やがておばあは、自分の中にあるその感覚を憎むようになりました。
人より少しだけ感じてしまうこと。
説明できない胸騒ぎ。
言葉にならない違和感。
全部。
全部いらないと思ったそうです。
「こんな力なら最初からなければよかった」
今のおばあからは想像もできませんが、本気でそう思っていたそうです。
第二章|生きるだけで精一杯だった
けれど人生は残酷です。
どれだけ苦しくても、立ち止まらせてはくれません。
おばあには幼い娘がいました。
今の私の母です。
悲しいからといって、ご飯を作らなくていいわけではありません。
寂しいからといって、働かなくていいわけでもありません。
娘は成長していく。
学校へ行く。
服も必要になる。
お金もかかる。
だからおばあは毎日働いたそうです。
朝早く起きて、仕事へ行って。
帰ってきて、夕飯を作って。
洗濯をして。
娘を寝かせる。
またそして朝が来る。
そんな毎日だったそうです。
周りから見れば、ちゃんと生きているように見えたかもしれません。
けれど、おばあの心はずっと止まったままだった。
本当は泣きたかった。
本当は誰かに助けてほしかった。
本当は全部投げ出したかった。
けれど母親だった。
だから泣いている暇もなかった。
考えている暇もなかった。
ただ生きることだけで精一杯だったそうです。
第三章|海を見なくなった理由
おじいを失ってから、おばあは海へ行かなくなりました。
島で生まれ育った人間が海へ行かなくなる。
それは簡単なことではありません。
昔のおばあは、何かあるたび海へ向かっていたそうです。
嬉しい時も。
苦しい時も。
迷った時も。
海を見ていた。
けれど、その頃から海を見ることさえできなくなったそうです。
波の音を聞くと苦しい。
潮の匂いを嗅ぐと胸が詰まる。
だから近づかなくなった。
塩も片付けた。
月桃もしまった。
祖母から受け継いだものも箱へ入れた。
相談に来る人も断った。
近所の人が悩みを話しに来ても、
「私じゃなくて他の人のところへ行きなさい」
と言って帰したそうです。
人の苦しみなんて聞きたくなかった。
自分のことで精一杯だったからです。
おばあはその頃、「もう終わった」と思っていたそうです。
拝みも。感じることも。人の話を聞くことも。
全部終わったものだと思っていた。
だから二度と関わらないと決めていたそうです。
第四章|娘が高熱を出した夜
そんな生活が何年も続いた頃。
ある夜、母が突然高熱を出しました。
最初は風邪だと思ったそうです。
子どもなのだから熱くらい出す。病院へ行けば治る。
そう思っていた。
けれど熱が下がらない。病院へ行っても原因が分からない。
薬を飲んでも下がらない。
一日。二日。三日。
母は苦しそうに眠り続けたそうです。
おばあは怖くなったと言います。
理由は分かりません。けれど怖かった。
胸の奥がざわざわしていた。そして思い出してしまった。
夫を失う前のことを。
あの時も理由のない不安があった。あの時も眠れなかった。
あの時も胸が苦しかった。
まさか。
そんなはずはない。
そう思えば思うほど、不安は大きくなったそうです。
夜中、母の額に触れる。
熱い。呼吸も苦しそう。
お願いだから連れて行かないで。
お願いだからこの子だけは。
その時、おばあは何年ぶりかも分からないほど久しぶりに泣いたそうです。
結び|消えたと思っていたもの
夜が明ける少し前。
おばあは押し入れの奥にしまってあった箱を取り出しました。
長い間開けていなかった箱でした。開けたくもなかった箱でした。
中には塩が入っていたそうです。
祖母から渡されたもの。
そして、自分が二度と触れないと決めていたもの。
おばあはしばらくその箱を見つめていたと言います。
何十分だったのか。何時間だったのか。
それはもう覚えていないそうです。
けれど、その時初めて気付いたそうです。
自分は力を捨てたつもりでいた。忘れたつもりでいた。
終わったものだと思っていた。
それなのに。本当に苦しい時。
本当に大切な人を守りたいと思った時。
最後に手を伸ばしたのは、ずっと憎み続けていたその力だったのです。
娘の熱は、その後少しずつ落ち着いていきました。
今でもおばあは言います。
「あれが拝みのおかげだったなんて言わないさぁ」と。
本当にそうなのかもしれません。薬が効いたのかもしれない。
時間が解決したのかもしれない。
それは誰にも分かりません。
けれど、あの夜を境に変わったものがありました。
それは娘の熱ではありません。
おばあ自身でした。
長い間閉じたままだった心が、ほんの少しだけ動き始めたのです。
そして、その先に何が待っていたのか。
なぜ今、おばあが人の話を聞いているのか。
その話は、次に続きます。
孫 琉花