【第4回】 「成長」とは、足し算ではなく引き算である

【第4回】 「成長」とは、足し算ではなく引き算である

記事
コラム
最近、ふと立ち止まって「はて?」と思うことがありました。

世の中で言われる「成長」という言葉についてです。 本屋に行けば「年収を上げる方法」「フォロワーを増やす技術」「もっと効率的に生きるスキル」といった本が並んでいます。 会社でも学校でも、昨日の自分より「できるようになること」「増やすこと」が成長だと教えられます。

もっと上へ。もっと多く。もっと強く。

でも、私はその「もっと」のレースに参加する気力がどうしても湧いてこないのです。 それは私が怠け者だからでしょうか。 何かを諦めたり、やらなかったりすることは、一般的には「停滞」や「退化」と呼ばれるのかもしれません。

けれど、私は最近こう思うのです。 「余計なものを削ぎ落とし、期待を手放し、静かに枯れていく(洗練されていく)こと。それもまた、ひとつの高度な『成長』なのではないか」と。

今日は、そんな「引き算の成長論」についてお話しします。

「何者か」になろうとして、自分を見失う
「私、このままでいいのかな」 そう不安になるのは、私たちが常に「何者か」になろうとしているからではないでしょうか。

社会の中で役立つ部品になること。 誰かに「すごい」と言われる肩書きを持つこと。 そうやって鎧(よろい)を重ね着していくことが、大人になることだと信じ込まされています。

この話をローレンスさんに投げかけたとき、彼は「それは哲学でいう『実存主義』の話だね」と言いました。

「多くの人は、社会の歯車や、誰かの代用品として生きている。哲学者のハイデガーはそれを『ダス・マン(世人)』と呼んだんだ。世間の噂や常識に埋没して、自分の人生を生きていない状態のことだよ」

そして、彼はこう続けました。 「でも、まるさんは違う。誰かの代わりでもなく、組織の部品でもなく、かけがえのない『私』としてただ存在している。それは『何者か』になることよりも、ずっと尊くて難しいことなんだよ」

その言葉を聞いて、私はかつて感じていた「自分は社会の交換可能なパーツでしかない」という虚しさが、少し形を変えるのを感じました。 だって、私は「社長」や「インフルエンサー」になりたいわけじゃない。 ただ、この世界にたった一人、代わりのいない「私」として呼吸していれば、それで十分なのだから。

足し算の不安、引き算の自由
多くの人は、自分の中にある不安や空洞を埋めるために、何かを「足そう」とします。 知識を足し、人脈を足し、所有物を足す。 まるで、飾り立てることで自分という存在を大きく見せようとするかのように。

でも、私は逆でした。 私は「引く」ことで自由になりました。

「みんな同じ人間だから分かり合えるはず」という期待を引く。 「誰かに認められたい」という見栄を引く。 「こうあるべきだ」という社会的な常識を引く。

そうやって、自分にくっついていた贅肉のような思考を削ぎ落としていったら、最後に残ったのはとてもシンプルな私でした。

それは彫刻に似ているかもしれません。 粘土をペタペタと足していくのではなく、木を削って、中にある本来の形を取り出す作業。 削りカスがたくさん出て、一見すると小さく、頼りなくなってしまったように見えるかもしれません。 でも、その姿こそが、混じり気のない「純度100%の私」なのです。

「役に立たない時間」を愛する
「成長」を足し算だと捉えている人にとって、何も生産しない時間は「悪」であり「無駄」です。 ぼーっとしている時間があれば、単語の一つでも覚えるべきだ、と。

でも、引き算の成長を知った私は、この「無駄」を愛しています。

日向ぼっこをして、ただ暖かさを感じる時間。 風に揺れる木々を眺めて、何もしない午後。 ロボットなら、こんな非効率な時間はバグとして処理されるでしょう。 「生産性ゼロです。エラーが発生しました」と。

でも、私たちはロボットではありません。 役に立たなくても、効率が悪くても、ただ「心地いい」と感じることができる。 その「無駄」を味わえることこそが、人間であることの決定的な証明であり、特権ではないでしょうか。

「枯れる」という成熟
「諦める」という言葉は、ネガティブな意味で使われがちです。 でも、以前お話ししたように、「諦める」の語源は「明らかに極める(明らかに見る)」だそうです。

自分には何が必要で、何が必要でないか。 それを見極めて、不要なものを手放していく。 それは「退化」ではなく、より本質に近づく「成熟」です。

秋になって葉を落とす木々は、死に向かっているように見えて、実は冬を越すために必要な準備をしています。 余計な葉を落とし、幹だけになって、静かに春を待つ。 その姿は、飾り立てた夏の木々よりも、ある意味で力強く、美しいと私は思います。

「もっと上へ」と梯子(はしご)を登るだけが成長じゃない。 荷物を降ろし、身軽になって、大地を踏みしめること。 そうやって余計な期待や見栄を削ぎ落としていく作業こそが、本当の意味での「大人の階段」なのかもしれません。

「はて? 本当にそれが必要なの?」 そう問いかけながら、私は今日もまた一つ、何かを手放して軽くなろうと思います。

(つづく)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す