前回のエントリーでアニメーターの勝井さんのことを書きましたが、日本以外でもアーティストでありたいのに別の道に、という方がいらっしゃいます。有名なところでは画家を志しながら夢破れたヒットラーがいますが、こちらは極端な形なのでちょっと置いといて、近しいところでフランスのアドルフ・ムーロン・カッサンドル、私は沢木耕太郎著「深夜特急」など一連のノンフィクションが大好きで、その装丁に使われたカッサンドルのグラフィックデザインもとても好きになりました。好きになりすぎて「深夜特急」ハードカバー上巻および文庫本第1巻の装丁に使われた「北方急行 (NORD EXPRESS)」のポスターを額装して部屋に飾っているくらいです。飾りっ気のない部屋での唯一の装飾品。
カッサンドルは「絵画はそれ自身で目的になるが、ポスターは売り手と公衆の単なるコミュニケーション手段にすぎない」と、割り切った思考をされていたようですが、後世に多大なる影響を与える緻密で洗練された構図のグラフィックデザインやタイポグラフィーを世に送り出します。彼が活躍した1920年代は産業革命によって「大量消費」に向かった時代でもあり、世のニーズにも合致したともいえます。美大では彼の作品や構図を分析し、実践してみる授業があるようです。私は残念ながら美大は出ていないのでその講義がどういうものかはわからないのですが、のちに1964年東京五輪の一連のビジュアルを手がける亀倉雄策氏も大きな影響を受けたとされています。これらは2016年リオ五輪閉会式の東京プレゼンテーションでも随所にリスペクトをされていて、本当プレゼンテーションは船頭が少ないのかどこの都市も素晴らしい内容に仕上がりになりますねと、やや自嘲気味に。
1940年以降は広告から装飾や舞台、絵画などに軸足を移しているようですが、商業デザインからエンタメに軸を移しただけで他者ありきの創作であったことは変わりがなかったのでしょうか?後年鬱気味になり1967年に自死をしてしまうという非常に残念な結果となりました。
自己表現そのものが「作品」となるいわゆるアーティストでも、他者、他社、他の広告、広報でも舞台でも商品でもそれらを介して「人が見る」ものです。その人たちの感情に訴えられるかどうかは結構本質的な課題なんだろうなとよく思うのですが、サッサンドルの一連のグラフィックデザインは、アートとしても充分力があります。自身のキャリアの中でも理想形のひとりです。