疑うことを忘れた国
日本人は、疑わない。
そう言うと、たいていの人は笑う。
「そんなことないでしょう」
だが、駅のホームを見てみればいい。
誰かが落とした財布があれば、拾って駅員に届ける。
列には黙って並ぶ。
店員には「ありがとう」と言う。
知らない人に迷惑をかけない。
それは美徳だった。
少なくとも、昔は。
問題は、美徳と服従の境目が、誰にも見えなくなったことだった。
東京の西側にある小さな区役所で働く三十八歳の佐伯直人は、ある朝、一通の通知を受け取った。
差出人は「国民生活安全管理局」。
そんな役所は、直人の知る限り存在しない。
封筒には、こう書かれていた。
――あなたは、模範的な市民です。
直人は眉をひそめた。
だが、その下の文章を読んで、もっと眉をひそめた。
――あなたの日常的な行動は、周囲の市民から高く評価されています。
――したがって、あなたを「信頼市民」に認定します。
「……なんだ、これ」
認定されること自体は悪いことではない。
そう思った。
むしろ、褒められている。
日本では、褒められると断りにくい。
直人は封筒を机の引き出しにしまった。
その日の昼休み、同僚の森田に話すと、森田は笑った。
「へえ、いいじゃん。俺なんて何も来てないよ」
「でも、こんな局、聞いたことある?」
「新しい部署じゃない?」
「調べたほうがいいんじゃないか」
森田は弁当の卵焼きを口に入れた。
「まあ、役所なんだから大丈夫だろ」
その一言で話は終わった。
直人も、それ以上は聞かなかった。
――役所なんだから。
その言葉が、あとになって何度も頭の中に蘇ることになる。
*
三週間後、街に新しい標識が立った。
「安心確認済み区域」
青い看板だった。
その区域では、防犯カメラの増設が進められた。
理由は「市民の安心のため」。
反対する人はほとんどいなかった。
テレビでは、専門家が言った。
「普通に生活している人には、何の不利益もありません」
ニュースキャスターも頷いた。
「なるほど。安心のためなら仕方ありませんね」
SNSには、
《悪いことしてなければ問題ない》
《安全になるなら賛成》
《反対する理由が分からない》
そんな言葉が並んだ。
直人も最初は、そう思った。
ところが、一人の女性が逮捕された。
名前は高橋美咲。
罪名は「社会的安心を著しく損なう虚偽情報の拡散」。
彼女がしたことは、ひとつの動画を投稿しただけだった。
区役所が配布している「安心市民認定」の基準について、
「これ、何を基準にしているんですか?」
と質問したのだ。
動画は削除された。
美咲は拘束された。
ニュースでは、
「根拠のない不安を広げた疑い」
と報じられた。
直人はテレビを消した。
そして、初めて思った。
――おかしくないか。
その瞬間だった。
スマートフォンが震えた。
画面には通知が表示されていた。
――あなたの「疑念指数」が上昇しました。
直人は息を止めた。
「……疑念指数?」
翌朝、区役所に行くと、森田の席が空いていた。
「森田は?」
同僚に聞く。
「昨日から休み」
「病気?」
「さあ」
その日の午後、直人のパソコンに一通のメールが届いた。
――あなたは現在、信頼市民資格の再審査対象です。
理由は書かれていなかった。
*
その夜、直人は初めて検索した。
「国民生活安全管理局」
何も出てこない。
政府のサイトにもない。
官報にもない。
法律にもない。
それなのに、街にはその局の看板が増えていた。
翌日には、駅にもあった。
「安心確認済み」
コンビニにもあった。
病院にもあった。
学校にもあった。
そして、学校の校門には新しい標語まで掲げられていた。
――良い市民は、疑わない。
直人は立ち止まった。
その言葉を見て、なぜか背筋が寒くなった。
疑わない。
誰を?
何を?
そして――なぜ?
帰宅すると、玄関の前に森田が立っていた。
「直人」
「森田……?」
「これを見てくれ」
森田は一枚の紙を差し出した。
そこには大量の名前が並んでいた。
直人は目を走らせる。
教師。
医師。
会社員。
学生。
政治家。
警察官。
そして――自分。
「何だ、これ」
「信頼市民リストだ」
「どうして森田が持ってる?」
「区役所のサーバーから出した」
直人は顔を上げた。
「そんなことしたら……」
「だから逃げてきた」
森田は笑わなかった。
「直人。このリスト、おかしいんだ」
「何が?」
「全員、同じなんだよ」
「同じ?」
「疑わない人間しか、載ってない」
直人は紙を見た。
そして気づいた。
そこに美咲の名前はなかった。
森田の名前もなかった。
自分の名前だけが、赤い線で囲まれていた。
「俺は……」
直人の声が震えた。
「俺は、疑わなかったから載ってたのか?」
「たぶんな」
森田が言った。
「でも、それだけじゃない」
「何が?」
「このリストは、褒めるためのリストじゃない」
遠くでサイレンが鳴った。
森田は窓の外を見た。
「監視するためのリストだ」
*
翌朝、日本中のテレビ画面に同じ映像が流れた。
総理大臣が壇上に立っていた。
「皆さんにお願いがあります」
穏やかな声だった。
「疑うことは、社会を分断します」
画面の下には字幕が出ていた。
――疑念は不安を生む。
――不安は争いを生む。
――だから、信頼しましょう。
総理は微笑んだ。
「私たちは、善良な国民同士です」
その瞬間、全国のスマートフォンに通知が届いた。
――あなたは、信頼できますか?
画面には二つのボタンがあった。
【はい】
【分からない】
ほとんどの人は「はい」を押した。
押せば、画面は消えた。
押さなければ、何度でも表示された。
直人は自分のスマートフォンを握りしめた。
指が「はい」の上で止まる。
そのとき、森田が言った。
「直人」
「……なんだ」
「一回だけでいい」
「何を?」
「疑ってみろ」
直人は画面を見た。
そして、「分からない」を押した。
数秒後、画面が真っ黒になった。
代わりに一行だけ表示された。
――あなたの回答を記録しました。
直人は笑った。
怖かった。
けれど、少しだけ可笑しかった。
日本人は、疑うことを忘れたのではない。
疑ってはいけないと、思い込まされていただけなのかもしれない。
外では、今日も人々が整然と列を作っていた。
誰も騒がない。
誰も怒鳴らない。
誰も政府を疑わない。
みんな、ちゃんとした良い人だった。
だからこそ。
誰か一人くらい、悪い市民にならなければならなかった。
直人は玄関を開けた。
そして初めて、自分から列の外へ出た。
後ろから誰かが叫んだ。
「佐伯さん!」
振り返る。
見知らぬ老人だった。
「そっちは危ないですよ」
直人は答えた。
「そうかもしれません」
そして、少し考えてから続けた。
「でも――本当に危ないのは、どっちなのか。それくらいは、自分で疑ってみたいんです」
老人は黙った。
直人は歩き出した。
その後ろで、一人。
また一人。
列から外れる人間が現れた。
誰かが疑い始めると、疑いは伝染する。
それは不安より速く広がることもある。
その日、日本で初めて、
「分からない」
という答えが、
「はい」より多くなった。疑うことを忘れた国
日本人は、疑わない。
そう言うと、たいていの人は笑う。
「そんなことないでしょう」
だが、駅のホームを見てみればいい。
誰かが落とした財布があれば、拾って駅員に届ける。
列には黙って並ぶ。
店員には「ありがとう」と言う。
知らない人に迷惑をかけない。
それは美徳だった。
少なくとも、昔は。
問題は、美徳と服従の境目が、誰にも見えなくなったことだった。
東京の西側にある小さな区役所で働く三十八歳の佐伯直人は、ある朝、一通の通知を受け取った。
差出人は「国民生活安全管理局」。
そんな役所は、直人の知る限り存在しない。
封筒には、こう書かれていた。
――あなたは、模範的な市民です。
直人は眉をひそめた。
だが、その下の文章を読んで、もっと眉をひそめた。
――あなたの日常的な行動は、周囲の市民から高く評価されています。
――したがって、あなたを「信頼市民」に認定します。
「……なんだ、これ」
認定されること自体は悪いことではない。
そう思った。
むしろ、褒められている。
日本では、褒められると断りにくい。
直人は封筒を机の引き出しにしまった。
その日の昼休み、同僚の森田に話すと、森田は笑った。
「へえ、いいじゃん。俺なんて何も来てないよ」
「でも、こんな局、聞いたことある?」
「新しい部署じゃない?」
「調べたほうがいいんじゃないか」
森田は弁当の卵焼きを口に入れた。
「まあ、役所なんだから大丈夫だろ」
その一言で話は終わった。
直人も、それ以上は聞かなかった。
――役所なんだから。
その言葉が、あとになって何度も頭の中に蘇ることになる。
*
三週間後、街に新しい標識が立った。
「安心確認済み区域」
青い看板だった。
その区域では、防犯カメラの増設が進められた。
理由は「市民の安心のため」。
反対する人はほとんどいなかった。
テレビでは、専門家が言った。
「普通に生活している人には、何の不利益もありません」
ニュースキャスターも頷いた。
「なるほど。安心のためなら仕方ありませんね」
SNSには、
《悪いことしてなければ問題ない》
《安全になるなら賛成》
《反対する理由が分からない》
そんな言葉が並んだ。
直人も最初は、そう思った。
ところが、一人の女性が逮捕された。
名前は高橋美咲。
罪名は「社会的安心を著しく損なう虚偽情報の拡散」。
彼女がしたことは、ひとつの動画を投稿しただけだった。
区役所が配布している「安心市民認定」の基準について、
「これ、何を基準にしているんですか?」
と質問したのだ。
動画は削除された。
美咲は拘束された。
ニュースでは、
「根拠のない不安を広げた疑い」
と報じられた。
直人はテレビを消した。
そして、初めて思った。
――おかしくないか。
その瞬間だった。
スマートフォンが震えた。
画面には通知が表示されていた。
――あなたの「疑念指数」が上昇しました。
直人は息を止めた。
「……疑念指数?」
翌朝、区役所に行くと、森田の席が空いていた。
「森田は?」
同僚に聞く。
「昨日から休み」
「病気?」
「さあ」
その日の午後、直人のパソコンに一通のメールが届いた。
――あなたは現在、信頼市民資格の再審査対象です。
理由は書かれていなかった。
*
その夜、直人は初めて検索した。
「国民生活安全管理局」
何も出てこない。
政府のサイトにもない。
官報にもない。
法律にもない。
それなのに、街にはその局の看板が増えていた。
翌日には、駅にもあった。
「安心確認済み」
コンビニにもあった。
病院にもあった。
学校にもあった。
そして、学校の校門には新しい標語まで掲げられていた。
――良い市民は、疑わない。
直人は立ち止まった。
その言葉を見て、なぜか背筋が寒くなった。
疑わない。
誰を?
何を?
そして――なぜ?
帰宅すると、玄関の前に森田が立っていた。
「直人」
「森田……?」
「これを見てくれ」
森田は一枚の紙を差し出した。
そこには大量の名前が並んでいた。
直人は目を走らせる。
教師。
医師。
会社員。
学生。
政治家。
警察官。
そして――自分。
「何だ、これ」
「信頼市民リストだ」
「どうして森田が持ってる?」
「区役所のサーバーから出した」
直人は顔を上げた。
「そんなことしたら……」
「だから逃げてきた」
森田は笑わなかった。
「直人。このリスト、おかしいんだ」
「何が?」
「全員、同じなんだよ」
「同じ?」
「疑わない人間しか、載ってない」
直人は紙を見た。
そして気づいた。
そこに美咲の名前はなかった。
森田の名前もなかった。
自分の名前だけが、赤い線で囲まれていた。
「俺は……」
直人の声が震えた。
「俺は、疑わなかったから載ってたのか?」
「たぶんな」
森田が言った。
「でも、それだけじゃない」
「何が?」
「このリストは、褒めるためのリストじゃない」
遠くでサイレンが鳴った。
森田は窓の外を見た。
「監視するためのリストだ」
*
翌朝、日本中のテレビ画面に同じ映像が流れた。
総理大臣が壇上に立っていた。
「皆さんにお願いがあります」
穏やかな声だった。
「疑うことは、社会を分断します」
画面の下には字幕が出ていた。
――疑念は不安を生む。
――不安は争いを生む。
――だから、信頼しましょう。
総理は微笑んだ。
「私たちは、善良な国民同士です」
その瞬間、全国のスマートフォンに通知が届いた。
――あなたは、信頼できますか?
画面には二つのボタンがあった。
【はい】
【分からない】
ほとんどの人は「はい」を押した。
押せば、画面は消えた。
押さなければ、何度でも表示された。
直人は自分のスマートフォンを握りしめた。
指が「はい」の上で止まる。
そのとき、森田が言った。
「直人」
「……なんだ」
「一回だけでいい」
「何を?」
「疑ってみろ」
直人は画面を見た。
そして、「分からない」を押した。
数秒後、画面が真っ黒になった。
代わりに一行だけ表示された。
――あなたの回答を記録しました。
直人は笑った。
怖かった。
けれど、少しだけ可笑しかった。
日本人は、疑うことを忘れたのではない。
疑ってはいけないと、思い込まされていただけなのかもしれない。
外では、今日も人々が整然と列を作っていた。
誰も騒がない。
誰も怒鳴らない。
誰も政府を疑わない。
みんな、ちゃんとした良い人だった。
だからこそ。
誰か一人くらい、悪い市民にならなければならなかった。
直人は玄関を開けた。
そして初めて、自分から列の外へ出た。
後ろから誰かが叫んだ。
「佐伯さん!」
振り返る。
見知らぬ老人だった。
「そっちは危ないですよ」
直人は答えた。
「そうかもしれません」
そして、少し考えてから続けた。
「でも――本当に危ないのは、どっちなのか。それくらいは、自分で疑ってみたいんです」
老人は黙った。
直人は歩き出した。
その後ろで、一人。
また一人。
列から外れる人間が現れた。
誰かが疑い始めると、疑いは伝染する。
それは不安より速く広がることもある。
その日、日本で初めて、
「分からない」
という答えが、
「はい」より多くなった。